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2005年8月19日 (金)

歴史の法廷

 

歴史の法廷の被告席、と中曽根康弘は言う。小泉純一郎は、そこにいるという意識をもっていない、と。

 これはコイズミという人物の幼児性と短絡思考と人物の本質を的確に突いていると思われる。一国の首相として主張を世界に通用する自らの言葉で表現できないのは資格を欠くと言わざるを得ない。それは世界から日本という国家の未熟あるいは民度の低さと見なされてもしかたがない。一国の指導者の資質と才覚は、彼を選んだ国民の責任であるからだ。長老達が懸念するのも、むべなるかなである。

 それはともかく、毎日新聞の17日夕刊で内藤記者が戦時中の荷風の日記を引用している。

 「現代日本のミリタリズムは秦の始皇抗儒学焚書の政治に比すべし」(1944年1月25日)と。アカショウビンは何かとこの時期は戦争関係の新しい書物や以前に読んだ本を引っ張り出し、再読、再々読するのが習慣になっている。その中では、先日も引用した竹内好の論考には触発されるところが多い。

「戦争体験」雑感(「思想の科学」8月号1964年)という文章では次の箇所が興味深かった。

 竹内は、小林秀雄の「日本人の戦争体験は平家物語や方丈記を越えることはできない」という言説を引いて、「小林に名を成さしめてはなるまい」と述べ、「季語化した戦争体験から抜けでるために国家批判の原点を発見することが、われらの任務だろう」と結んでいる。同感だ。アカショウビンも保田與重郎だけでなく丸山眞男、竹内好らが熱く議論した1960年前後の時代の空気を反芻しながら「季語化」しないような思索を重ねていこう。

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