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2005年8月31日 (水)

水霊

西脇順三郎の「旅人かへらず」という詩篇の中で人という存在は「水霊」である。「考へよ人生の旅人 汝もまた岩間からしみ出た 水霊にすぎない」、と詩人は囁く。 

 モダニストと評された筈の詩人に無常観がどれほど身についていたか知らないが「この考へる水も永劫には流れない 永劫の或時にひからびる ああかけすが鳴いてやかましい」という、この詩の一節には、それが色濃く流れているように読み取れる。それは芭蕉を経て往古の詩人達の血の系譜を、この詩人も有しているということになりはしないか。

 先日の夕刊紙を読んでいると五木寛之氏が「天命」という言葉の解釈を通して阿弥陀仏の救いについて興味深いことを述べていた。失礼を省みず途中から抜粋させて頂く。

「(前略)考えようによっては、私は自己の責任で『天命』や『他力』に企投したように思われるかもしれない。『天命』という考えかたを、自分で選択し、それに一身を賭けたのだ、と。 しかし、それは真宗の思想がすでに答えを出している。阿弥陀仏に帰依し、念仏を信じるのは、自らの計らいにてはあらず、と考えるのだ。仏は自分から近づいてきて衆生の袖をつかんで自分のほうに引き寄せるのだ、という思想である。自分がアンガージュしたように見えても、じつはそうではない。向こうから引き寄せられたのだ、と言うのである。こちらから近づいていって、『お願いします』というのではない。むこうから手をのばして引き寄せ、この手につかまれ、と呼びかけるのだ、というのが『他力』」思想である。」

 アカショウビンは若い頃も今も五木氏の熱心な読者ではないが、近作や蓮如、親鸞、浄土教を通した仏教への傾倒は夙に漏れ聞くところである。その夕刊紙の連載は話題によっては時に啓発され、そのつどの相手による語りの面白さは仕事帰りの楽しみでもある。 

 一方で、自未得度先渡他、これが仏法の精髄だ、と道元は言う。自分は未だ「得度」していなくても先に他人を渡す。「得度」は悟りと解してもよいだろう。「渡す」は、他人を先に悟らせる、とアカショウビンは読んでいるが、これは「自力」とはいえまいか。日蓮や道元は題目と座禅が自力と見えるが果たしてそうだろうか。道元については正確な読みをあたり、更に一歩踏み込んで考えてみよう。日蓮、道元は、法然や親鸞の「弥陀の本願に任せる」絶対他力の思想と、どう異なるのか?

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