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2005年8月20日 (土)

私達の「現在」

戦争を考える時に、ふとアカショウビンはマイケル・チミノ監督の「ディア・ハンター」という作品を思い起こすのである。これはベトナム戦争を米国人の側から描いた佳作である。そこではロシアン・ルーレットという過酷な設定を通じて、米国兵の狂気とベトナム兵の命をかけた渡り合いが描写される。あの戦争で、果たしてそういったゲームが行われたかどうかは、かつて本多勝一氏が、この作品に異を唱えていたはずだ。しかしアカショウビンは本多氏の批判は、この作品の本質的な批判とは解せなかった。映画とは、日常と異なる架空の世界を描出する一つの近代的なメディアである。そこで一つのフィクションが組み立てられていても、それを嘘だと難じては決して作品の根底的な批判とはならないようにアカショウビンは思ったからだ。

さて、その作品で描かれるベトナム戦争とはいかなるものであったか。あの戦争を経験した米兵達は国に帰り、戦争とは異質の日常の中で戦争によって受けた精神的な傷がしばしば噴出する姿が描かれる。それは実戦で戦争を知らないアカショウビンや若い人たちにとって、想像することは可能だが、受け取り方に個人差があるのは仕方がない。

そこで、わが国の行く末にアカショウビンは、はたと立ち止まり考え込んでしまうのである。このブログは右翼的な言辞を弄する内容と誤解されかねない論調を呈しているかもしれないが、そうではないところで発する言説であることは断っておきたい。そこは確かに危うい領域である。しかしそこで思考される認識や主張、感想は一人の日本人として、人間として伝えておきたい事柄なのである。

一つ注意を喚起して起きたいことがある。それは、先に紹介した高橋哲哉氏の言説に対する違和感と共感である。戦後に生を受け現在も生きているアカショウビンを含め若い人々の現実感を、明快にあるいは断定的に高橋氏は説いている。それは中立、左翼的な言説に共感する人々には支持されるであろう。また、この著作に対する左右両翼の評価や販売部数を見れば関心の高さが了解できる。

しかし、である。先に紹介した竹内 好、三島由紀夫、江藤 淳の言説、論説を介して了解する、この国の現在の時空間は実に微妙な場面に差し掛かっているとアカショウビンは考えるのである。

それは右傾化とか保守化とか、かつての古いパラダイムでは了解することの出来ない領域に移行していると思われる。

雑誌、新聞、巷の言説などを通して了解される日本の現在は、決して分かりやすいパースペクティヴを持っているものとアカショウビンには思えない。恐らく、それは、ハイデッガーのいう、「存在の歴史」の本質的な性格とでもいうべきものであろう。しかし人は存在論として、あれこれの言説を立てることはいくらでも出来る。アカショウビンの言説もまたその一つであることは断るまでもない。

そこで注釈を付けておきたいのは、先の高橋氏が、かつて「ショアー」というナチズムを斬新に描いた映像作品での言説を通した末に我が国の「靖国問題」にコミットしている点である。あの作品はアラン・レネの「夜と霧」という西洋映画史に残る苛烈な作品を共に作りあげた、その当時はレネの助監督だったクロード・ランズマン監督の渾身の作品である。そこから高橋氏の著作を読めば、我が国の「靖国問題」は、この島国だけの問題で論議するだけでは矮小化されてしまう、という危惧は、高橋氏の問題意識の根底にあるところであろう。

「靖国問題」という枠組みから論議は新たなパラダイムでさらに一歩を進めていかねばならない。そうでなければ、竹内好や丸山眞男、鶴見俊輔氏、吉本隆明氏らの1960年前後の各論説や、保田與重郎、江藤 淳、三島由紀夫、村上一郎、竹山道雄ら左右両翼の言説・論説の成果が、私達の生きる現在を経てこれからの日本の方向性を誤ることにもなりかねないからである。新たなパラダイムとは?そこが我々が思索するに値する領域であろう。

今回の総選挙を経て、この国が大きく変わることはないだろうが新政権が憲法問題などで如何なる方向へ軌道を修正、転換していくのか興味深いところではある。

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