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2005年8月 1日 (月)

音霊

 別に奇を衒うわけではないが、言霊という言葉あるのだから音霊があってもよいのではないか、と思うのだ。ブルックナーの交響曲を聴いていると、そう思う。かつてガンジーは、英国人を通してであろうが西洋には東洋の魂と道徳がない、と述べたという。私は保田與重郎がそう書いているのを読み、西洋の人々にだって魂や道徳はあるだろう、と思うのだが、果たしてガンジーの真意と保田の言説はどれほど乖離し近いのか、いずれ突き止めてみたいが今はさておく。

 逆にアカショウビンはブルックナーの作品を聴きながら、彼が信仰したカトリック的あるいはキリスト教的文化土壌とは縁の薄い東洋人にとって崇高という概念は果たしてどのように存在しているのか、と問いたい衝動に駆られるのだ。ブルックナーの音楽の底にあるのは神の賛美と崇高なるものを音で表現しようという強靭な意志とでもいうものである。ブルックナーは日本人にはわからないだろう、と吉田秀和氏は彼方の人から言われて、そうかもしれないと書いていたのではなかったか。吉田氏もまたブルックナーは好きではないらしい。しかしアカショウビンは20代の前半の若い頃にブルックナーを聴いて以来この長大な交響曲作家とは飽きることもなく付き合っている。その理由は、この音楽を聴いていると、そこに貫かれていると思う崇高という概念に興味をかきたてられるからだ。

 そこで音霊という造語を提案してみるのだが。

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