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2005年8月 7日 (日)

「待望の光明」(続き)

ハイデッガーは「形而上学入門」(原書は1953年刊、翻訳は1960年理想社から川原栄峰氏訳で発刊。1994年、平凡社から同氏の改訂で再刊)で、存在を限定するときに定式のように論議される存在と生成、存在と仮象、存在と思考、存在と当為という4つの区分にそって存在を思索している。

その中で彼は「存在と仮象」という区別を分析しながら、ソフォクレスの「オイディプス王」を引用する。周知のようにオイディプスは、自ら両眼を潰し荒野をさまよう運命を甘受した人物である。これをヘルダーリンが「美わしい青空に・・・花咲く」という詩の中で「オイディプス王はおそらく眼を一つ余計に持ちすぎているのだ」と予言者のような語句で説明している、とハイデッガーは次のように書いている。

「多すぎるこの一つの眼こそ、すべての偉大な問うことと知ることとの根本条件であり、またそれの唯一の形而上学的根拠である。ギリシア人の知と学問とはこのような激情である」と。

オイディプス王が、眼を潰して視えた心(意識)の世界とはどのようなものであるのか?それは視線が肉眼だけでなく意識の「世界」にも存在することを示唆している。ハイデッガーの存在論が盲目の人々の「世界」まで射程が及んでいるかアカショウビンは詳らかにしないが存在論における視線とは、そこまで分け入ってみる必要はあると考える。

先に引用した後期ハイデッガーの手紙の中でも引かれている「待望の光明」という不可解な語を説明するなかで彼が言う「「現にあること(Da-sein)」の開けとは、空き地(Lichtung)を耐え忍ぶこと[出で立つこと(Ausstehen)]」だ、という、これまた不可解な説明を理解するために、この「形而上学入門」で「オイディプス王」の最期のコロスの中に見える数行を引用したあと、彼が説明している次のような言説は少しは参考になるだろうか。それにしても難解ではあるが。

「いま、仮象するとは、存在の一変種として、転倒と同じものだということがわかる。それは、まっすぐ-自己の-中で-直立して-そこに立つことという意味での存在の一変種である。存在からのこの二つの偏向は、光の-中に-立つこと、すなわち現象することの存続性としての存在からその規定を得ている」。(同書p179~p180)

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