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2005年8月24日 (水)

お盆を過ぎて

お盆を過ぎれば夏も過ぎ行く途中である。日本人の死生観は夏に凝縮する。敗戦が8月15日だったのは、日本という国にとって運命とも宿命とも言えるように思われる。

アカショウビンも蝉時雨と蝉の死骸を見ると柄にもなく生と死、あるいは現に存在している時間と、それが止んだ時空間を考えるのである。そこは来世か、無か。キリスト教文化圏とイスラームあるいはアジアの仏教文化圏で思想体系は異なるだろうが、関心の的は死という一点だろう。

「苦界浄土」を書かれた石牟礼道子さんが「親鸞 不知火よりのことづて」(平凡社ライブラリー1995)で、「よく水俣の患者さんが『このつぎは犬畜生に生まれてくるかもしれん』とか『もう人間はいやじゃ、人間に生まれてきとうない』とおっしゃいます。と申しますのは現代社会はもう、自らを浄める力がなくなってしまったのではないかという、深い嘆きから出る言葉かとおもいます。」と語っておられる。痛烈な語りだと思う。

先に紹介した「ショアー」の監督であるクロード・ランズマンは水俣で石牟礼さんとお会いされているのではなかったか。

やがて9月の声を聞けば、秋が来る。この季節の移り変わりは日本人にとって、最も美しい季節であろう。ここに古人たちは、外界の風景、景色の移り変わりに、人の世の移ろいを、もののあはれとして全身全霊で感じ取ったのだ。我々に果たしてその感覚は継承されているだろうか?

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