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2005年8月12日 (金)

この惑星

ディスカバリーから見える地球の映像を見ていると、キューブリックの「2001年宇宙の旅」のラストシーンを思い起こしたのはアカショウビンだけでもあるまい。キューブリックが創造したあの映像は凄かった。高校生の頃に見たあの作品でアカショウビンは人生観、世界観が変わったと言ってもよいくらいの衝撃を受けた。

そのときに原作は読んでいなかったが、後年、映画の原作になったアーサー・C・クラークの諸作品を読み、それが新人類の誕生を示唆するものと知っても新たな感慨はなかった。あれは新人類でなくとも、ヒトの誕生がどういう過程で現象するか、といった存在論から神秘説へと至る危ういところで、ヒトという存在あるいは存在とは何か、という問いと相対する上で実に刺激的な映像だと思ったからだ。

しかし話はそこからだ。

そこで、この地球という惑星の存在と、そこに生息する生き物や我々人間、物体、総称すると「存在者」、とは何か、という問いは、かつてハイデッガーが発し、それに続き弟子や論争相手が更に関わり続けている問いである。

「形而上学入門」に書き残し、後にヴィクトル・ファリアスらに指弾されることになった問題の箇所は、この哲学者の思索の全体からすると瑣末なものともいえるが一応引用してアカショウビンも更に、その問いと自分なりに格闘していこう。

 「いわんや今日、国家社会主義(ナチス)の哲学として横行しているが、この運動の内的真理と偉大と(つまり地球全体の惑星的本質から規定されている技術と近代的人間との出会い)には少しも関係のないあの哲学のごときは、「価値」と「全体性」とのこの濁流の中で当てずっぽうに網打漁をしているのである」。(川原栄峰訳 平凡社 p323)

 「ディスカバリー」とは正にハイデッガーの言う「惑星的本質から規定されている技術と近代的人間との出会い」という存在でもあるのである。引用の( )の部分は後年、ハイデッガーが弟子達の助言を聞き入れて挿入したものとされている。しかしハイデッガーはナチスの「運動」の内的真理と偉大という表現を削除しなかった。ここにハイデッガーという人物(思想でなく、思想家でもない)の真骨頂があるとアカショウビンは思う。それは我が国の明治以降の「近代」を考えるうえで保田與重郎というウルトラナショナリストがこだわった「近代の否定」という思想スタンスとも反響・共鳴しているのである。

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