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2005年8月31日 (水)

水霊

西脇順三郎の「旅人かへらず」という詩篇の中で人という存在は「水霊」である。「考へよ人生の旅人 汝もまた岩間からしみ出た 水霊にすぎない」、と詩人は囁く。 

 モダニストと評された筈の詩人に無常観がどれほど身についていたか知らないが「この考へる水も永劫には流れない 永劫の或時にひからびる ああかけすが鳴いてやかましい」という、この詩の一節には、それが色濃く流れているように読み取れる。それは芭蕉を経て往古の詩人達の血の系譜を、この詩人も有しているということになりはしないか。

 先日の夕刊紙を読んでいると五木寛之氏が「天命」という言葉の解釈を通して阿弥陀仏の救いについて興味深いことを述べていた。失礼を省みず途中から抜粋させて頂く。

「(前略)考えようによっては、私は自己の責任で『天命』や『他力』に企投したように思われるかもしれない。『天命』という考えかたを、自分で選択し、それに一身を賭けたのだ、と。 しかし、それは真宗の思想がすでに答えを出している。阿弥陀仏に帰依し、念仏を信じるのは、自らの計らいにてはあらず、と考えるのだ。仏は自分から近づいてきて衆生の袖をつかんで自分のほうに引き寄せるのだ、という思想である。自分がアンガージュしたように見えても、じつはそうではない。向こうから引き寄せられたのだ、と言うのである。こちらから近づいていって、『お願いします』というのではない。むこうから手をのばして引き寄せ、この手につかまれ、と呼びかけるのだ、というのが『他力』」思想である。」

 アカショウビンは若い頃も今も五木氏の熱心な読者ではないが、近作や蓮如、親鸞、浄土教を通した仏教への傾倒は夙に漏れ聞くところである。その夕刊紙の連載は話題によっては時に啓発され、そのつどの相手による語りの面白さは仕事帰りの楽しみでもある。 

 一方で、自未得度先渡他、これが仏法の精髄だ、と道元は言う。自分は未だ「得度」していなくても先に他人を渡す。「得度」は悟りと解してもよいだろう。「渡す」は、他人を先に悟らせる、とアカショウビンは読んでいるが、これは「自力」とはいえまいか。日蓮や道元は題目と座禅が自力と見えるが果たしてそうだろうか。道元については正確な読みをあたり、更に一歩踏み込んで考えてみよう。日蓮、道元は、法然や親鸞の「弥陀の本願に任せる」絶対他力の思想と、どう異なるのか?

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2005年8月24日 (水)

お盆を過ぎて

お盆を過ぎれば夏も過ぎ行く途中である。日本人の死生観は夏に凝縮する。敗戦が8月15日だったのは、日本という国にとって運命とも宿命とも言えるように思われる。

アカショウビンも蝉時雨と蝉の死骸を見ると柄にもなく生と死、あるいは現に存在している時間と、それが止んだ時空間を考えるのである。そこは来世か、無か。キリスト教文化圏とイスラームあるいはアジアの仏教文化圏で思想体系は異なるだろうが、関心の的は死という一点だろう。

「苦界浄土」を書かれた石牟礼道子さんが「親鸞 不知火よりのことづて」(平凡社ライブラリー1995)で、「よく水俣の患者さんが『このつぎは犬畜生に生まれてくるかもしれん』とか『もう人間はいやじゃ、人間に生まれてきとうない』とおっしゃいます。と申しますのは現代社会はもう、自らを浄める力がなくなってしまったのではないかという、深い嘆きから出る言葉かとおもいます。」と語っておられる。痛烈な語りだと思う。

先に紹介した「ショアー」の監督であるクロード・ランズマンは水俣で石牟礼さんとお会いされているのではなかったか。

やがて9月の声を聞けば、秋が来る。この季節の移り変わりは日本人にとって、最も美しい季節であろう。ここに古人たちは、外界の風景、景色の移り変わりに、人の世の移ろいを、もののあはれとして全身全霊で感じ取ったのだ。我々に果たしてその感覚は継承されているだろうか?

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2005年8月21日 (日)

黒澤 明の「赤ひげ」

生涯に観た映画作品で心に残る映画を一本あげよ、と言われれば、そんな無茶なこと言われてもねぇ、とブツブツ言いながらも楽しい思案の末にアカショウビンは黒澤 明の「赤ひげ」を挙げる。   

この作品は、黒澤 明という映画作家の集大成といってもよい作品に思える。確かに、作家としての頂点は、もっと早い時期にあり、「生きる」「七人の侍」などの傑作群は「赤ひげ」以前にあるのは認めるところだ。しかし黒澤 明という我が国が生んだ稀有の映画作家の集大成は「赤ひげ」だ、とアカショウビンは確信する。以下感想を述べるが、監督を含め出演者のお名前の敬称は省かせて頂くことを、おことわりする。

この作品では、人とはどういう存在か、人が生き、死ぬ、ということは、どういうことか。それらの、誰もが人生の或る時に感ずるだろう問い、に黒澤は山本周五郎の原作を通し答えようとしている。映像と物語、あるいは非物語で何事かを伝える「映画」という媒体を駆使して黒澤は、それを物語として描き尽くそうと奮闘した。出演者達も渾身の演技でそれに応えた。黒澤の人間を見つめる眼差しは深く、悲しく、明るく、時にユーモラスに表出されている。

アカショウビンも50年を越えて生きてきて、ふと自分の人生とは何だったのかと振り返ることがある。その折に、出会えて良かった、これで思い残すことはない、と言い切れる音楽、絵画、あるいは小説や詩を幾つか挙げることは出来るが、映画作品では「赤ひげ」がその中の一つだ。

繰り返すが、この作品で黒澤は、人とはどういう存在なのか、という設問に映像と物語で一つの回答を出した、とアカショウビンは思う。この作品を高校生の時に最初に見て驚愕し、それから他作品を観た後も、未だに繰り返し見直すのはこの作品だ。何年かに一度、劇場でかかると場末の映画館にも足を運んだ。生きることの困難さと直面したような時、アカショウビンはこの作品を見直すごとに、心身に沸々と力が湧き起こるのを感じる。

最初にこの作品を観た時には、おとよ(二木てるみ)という娘を描く黒澤の演出にアカショウビンは、その頃読みふけっていたドストエフスキーの「虐げられし人々」他の諸作品にも比すべき黒澤の人間を見る視線の深さと透徹さを感得した。それから何度も周期的に、この作品を見直しているが、その度ごとに新たな発見がある。今回は次のシーンに釘付けになった。

六助という、かつては蒔絵師として一家を成した老人が死に、それを知らずに、その娘が療養所に父を頼って訪れる場面がある。根岸明美演ずる娘のモノローグは映画史に残る見事なシーンだろう。

母親が不義をした男と夫婦にさせられた自分の気持ちを三船敏郎演ずる赤ひげに彼女は問わず語りに語る。その迫真の演技と優れた演出は黒澤という映画作家の天才と根岸明美という女優の畢生の演技を伝える名シーンといってよいだろう。優れた演出と、主役を食うような不可欠な脇役の役割を果たした役者が創造する一つの達成点がそこには描出されている。脚本は、死ぬまで何も語らずに死んでいった六助の人生が娘の語りによって明かされるように構成されている。

それから物語は、養生所からかつて住んでいたムジナ長屋に運びこまれ死を迎える山崎 努演ずる佐八の語りへと移る。佐八の妻との出会いと別れが切々と、時に激しく、回想される。

きのとひつじの大地震で佐八は妻のおなか(桑野みゆき)と別れ別れになった。2年後の或る日、祭りの夜に佐八はおなかに偶然再会する。おなかは赤ん坊を背負っている。「太吉と言うんです」「誕生くらいか」「八カ月です」。「幸せにやっているだろうね」。「えぇ」「もう会えないんだろうな」。おなかは哀れに佐八に頭を下げて去っていく。佐八は死の床で、その頃のことを眼前に見るように語る。

回想の中で、おなかは、佐八の住んでいる長屋を探し当て訪ねてくる。おなかは佐八から逃げた理由を話す。

佐八は「お前がつらくなければな」と優しく言う。

おなかは、地震が罰だと思った、区切りをつけろ、と言うお告げなんだと考えた、と話す。

そして、「けりをつける時がきたんだ」、と語り、自分に刃物を向け佐八に、抱いて、と懇願し刃で自分を刺す。

この、おなかの哀れは、女が描けないと酷評もされた黒澤が出した答えであり、佐八との出会いと別れは、黒澤作品の中でも、もっとも美しい映像の一つだとアカショウビンは思う。

先日、私事に変化があり、思うところあってレンタルDVDでこの作品を見直した。そして、ひとつの芸術作品が持つ力の偉大を改めて感得した。

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2005年8月20日 (土)

私達の「現在」

戦争を考える時に、ふとアカショウビンはマイケル・チミノ監督の「ディア・ハンター」という作品を思い起こすのである。これはベトナム戦争を米国人の側から描いた佳作である。そこではロシアン・ルーレットという過酷な設定を通じて、米国兵の狂気とベトナム兵の命をかけた渡り合いが描写される。あの戦争で、果たしてそういったゲームが行われたかどうかは、かつて本多勝一氏が、この作品に異を唱えていたはずだ。しかしアカショウビンは本多氏の批判は、この作品の本質的な批判とは解せなかった。映画とは、日常と異なる架空の世界を描出する一つの近代的なメディアである。そこで一つのフィクションが組み立てられていても、それを嘘だと難じては決して作品の根底的な批判とはならないようにアカショウビンは思ったからだ。

さて、その作品で描かれるベトナム戦争とはいかなるものであったか。あの戦争を経験した米兵達は国に帰り、戦争とは異質の日常の中で戦争によって受けた精神的な傷がしばしば噴出する姿が描かれる。それは実戦で戦争を知らないアカショウビンや若い人たちにとって、想像することは可能だが、受け取り方に個人差があるのは仕方がない。

そこで、わが国の行く末にアカショウビンは、はたと立ち止まり考え込んでしまうのである。このブログは右翼的な言辞を弄する内容と誤解されかねない論調を呈しているかもしれないが、そうではないところで発する言説であることは断っておきたい。そこは確かに危うい領域である。しかしそこで思考される認識や主張、感想は一人の日本人として、人間として伝えておきたい事柄なのである。

一つ注意を喚起して起きたいことがある。それは、先に紹介した高橋哲哉氏の言説に対する違和感と共感である。戦後に生を受け現在も生きているアカショウビンを含め若い人々の現実感を、明快にあるいは断定的に高橋氏は説いている。それは中立、左翼的な言説に共感する人々には支持されるであろう。また、この著作に対する左右両翼の評価や販売部数を見れば関心の高さが了解できる。

しかし、である。先に紹介した竹内 好、三島由紀夫、江藤 淳の言説、論説を介して了解する、この国の現在の時空間は実に微妙な場面に差し掛かっているとアカショウビンは考えるのである。

それは右傾化とか保守化とか、かつての古いパラダイムでは了解することの出来ない領域に移行していると思われる。

雑誌、新聞、巷の言説などを通して了解される日本の現在は、決して分かりやすいパースペクティヴを持っているものとアカショウビンには思えない。恐らく、それは、ハイデッガーのいう、「存在の歴史」の本質的な性格とでもいうべきものであろう。しかし人は存在論として、あれこれの言説を立てることはいくらでも出来る。アカショウビンの言説もまたその一つであることは断るまでもない。

そこで注釈を付けておきたいのは、先の高橋氏が、かつて「ショアー」というナチズムを斬新に描いた映像作品での言説を通した末に我が国の「靖国問題」にコミットしている点である。あの作品はアラン・レネの「夜と霧」という西洋映画史に残る苛烈な作品を共に作りあげた、その当時はレネの助監督だったクロード・ランズマン監督の渾身の作品である。そこから高橋氏の著作を読めば、我が国の「靖国問題」は、この島国だけの問題で論議するだけでは矮小化されてしまう、という危惧は、高橋氏の問題意識の根底にあるところであろう。

「靖国問題」という枠組みから論議は新たなパラダイムでさらに一歩を進めていかねばならない。そうでなければ、竹内好や丸山眞男、鶴見俊輔氏、吉本隆明氏らの1960年前後の各論説や、保田與重郎、江藤 淳、三島由紀夫、村上一郎、竹山道雄ら左右両翼の言説・論説の成果が、私達の生きる現在を経てこれからの日本の方向性を誤ることにもなりかねないからである。新たなパラダイムとは?そこが我々が思索するに値する領域であろう。

今回の総選挙を経て、この国が大きく変わることはないだろうが新政権が憲法問題などで如何なる方向へ軌道を修正、転換していくのか興味深いところではある。

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2005年8月19日 (金)

歴史の法廷

 

歴史の法廷の被告席、と中曽根康弘は言う。小泉純一郎は、そこにいるという意識をもっていない、と。

 これはコイズミという人物の幼児性と短絡思考と人物の本質を的確に突いていると思われる。一国の首相として主張を世界に通用する自らの言葉で表現できないのは資格を欠くと言わざるを得ない。それは世界から日本という国家の未熟あるいは民度の低さと見なされてもしかたがない。一国の指導者の資質と才覚は、彼を選んだ国民の責任であるからだ。長老達が懸念するのも、むべなるかなである。

 それはともかく、毎日新聞の17日夕刊で内藤記者が戦時中の荷風の日記を引用している。

 「現代日本のミリタリズムは秦の始皇抗儒学焚書の政治に比すべし」(1944年1月25日)と。アカショウビンは何かとこの時期は戦争関係の新しい書物や以前に読んだ本を引っ張り出し、再読、再々読するのが習慣になっている。その中では、先日も引用した竹内好の論考には触発されるところが多い。

「戦争体験」雑感(「思想の科学」8月号1964年)という文章では次の箇所が興味深かった。

 竹内は、小林秀雄の「日本人の戦争体験は平家物語や方丈記を越えることはできない」という言説を引いて、「小林に名を成さしめてはなるまい」と述べ、「季語化した戦争体験から抜けでるために国家批判の原点を発見することが、われらの任務だろう」と結んでいる。同感だ。アカショウビンも保田與重郎だけでなく丸山眞男、竹内好らが熱く議論した1960年前後の時代の空気を反芻しながら「季語化」しないような思索を重ねていこう。

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2005年8月15日 (月)

日本の「近代」と戦後史

我が国の近代史の始まりのひとつを1863年の薩英戦争におくことは可能だと思う。それ以前から工業化を進めてきた薩摩藩は、西洋近代の申し子ともいえる英国に敗れた事によって目覚め、「西洋近代」の武力に集約される技術力を自ら進んで取り入れ始めた。以後、薩摩藩の先陣に続き諸藩も、そして明治政府が「国家」としても、自ら西洋近代と不可避に複雑に絡みつつ天皇を頂点に戴き軍国主義を国の柱として日本の近代をまっしぐらに「大東亜戦争」まで突き進んだ。

そこで保田與重郎が戦前・戦中・戦後を通して主張し続けた思想は、単なるウルトラ・ナショナリストとして切って捨てられるには少し深い思想内容を秘めていることは再考してもよい。

保田の思想的スタンスはドイツロマン派を学ぶことによって、「近代」という歴史過程をパースペクティヴとして持っている。そこから日本という国家が近代国家として世界史に乗り出していく過程を容認したのである。そこから、あの戦争が「西洋」に対する「アジア」の闘いという思想的言説に共鳴し参画したのである。それは保田が考える歴史過程であると同時にアカショウビンも条件付きで同意する歴史過程である。

その条件とは「アジアのナショナリズム」という論文で竹内好が述べている考えを射程に治めて、という条件である。

竹内は戦後しばらくして次のように述べている。「毛沢東を経過することによって、アジアのナショナリズムは、西欧への反抗と諦念の段階から、自由、平等など、西欧近代の生み出した価値遺産の継承発展の段階へと論理的に進む。それは一口にいって、ヒューマニズムを貫徹せしめるそれ自身新しいヒューマニズムであるという意味で、今日の思想として重要なのである。しかし、そのような評価は、おそらく西欧側からは出まい。それはおそらく、一度は西欧に追従することによってアジアのナショナリズムを見失った日本が、再生の途上で発見すべき課題であろう」(1955825日「東京朝日新聞」学芸欄、「日本とアジア」ちくま学芸文庫所収)

戦後日本が世界史の中で持つ独自性とは、そこにある。そのパースペクティヴを現実的に思考しぬく義務を、戦後60年を経て生きる我々日本人は課せられている、とアカショウビンは考える。

三島由紀夫、江藤 淳らの思想も保田與重郎の思想的基盤を根底に持っていることは言うまでもない。彼らは戦後の日本が生きる可能性を模索し思索した末に自ら果てた。その思考を無視することは出来ない。三島が生前、全共闘との論戦で提出した問い(注1)や江藤が靖国神社を通して開陳した言説(注2)は、我々が回答しなければならない重い意味を持っている。高橋哲哉氏の「靖国問題」(2005年4月10日刊、ちくま新書)は江藤の論考を通して持論を展開しているのは興味深いところだ。これは時流に即した安易な書ではない。しかし、そこにあるのは「戦後民主主義」として右翼陣営から黙殺されかねない危うい論調も持っていることは注意してよいだろう。

さて、保田與重郎は戦後、「米作り」というアジアに共通する農作業に従事しながら悠々と近代を否定することで「日本」という国家の本質を反芻し三島や江藤の如く自裁することもなく生を終えた。この生の足跡と思想の差異こそが、後に続く我々が考えなければならぬ我が国の歴史の本質の「一つ」とアカショウビンは考える。

その戦後史の過程を再考するなかで「戦艦大和ノ最期」の著者である吉田 満さんが戦後すぐにカトリックに入信した、という事実は何事か示唆的な決断と思われる。吉田さんは戦後の出発をキリスト教徒として選びとった。それは重要な選択と思われる。巷間喧しい靖国論議と吉田さんは異教徒になることで一線を画す意志表示をしたのであろう。

次は、この夏を終えるまで、そこから更に思考を重ねていきたい。

(注1)              三島由紀夫が1969年5月13日、東大全共闘とのパネル・ディスカッションで提出した問い、というのは次の五点である。①暴力否定は正しいかどうか②時間は連続するものか非連続か③三派全学連はいかなる病気にかかっているのか④政治と文学との関係⑤天皇の問題

(注2)               高橋氏は江藤の論考「生者の視線と死者の視線」(江藤 淳、小堀桂一郎編「靖国論集―日本の鎮魂の伝統のために」1986年、日本教文社、所収)を引用して、江藤が次のように述べたと書いている。「日本人が風景を認識する時には、単なる客観的な自然の形状として認識するのではなくて、その風景を見ている自分たち生者の視線と交錯する死者の視線をも同時に認識しているのです」。そして、さらに折口信夫を引用し「死者の魂と生者の魂との行き交いがあって初めてこの日本という国土、文化、伝統が成立する」。

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2005年8月12日 (金)

この惑星

ディスカバリーから見える地球の映像を見ていると、キューブリックの「2001年宇宙の旅」のラストシーンを思い起こしたのはアカショウビンだけでもあるまい。キューブリックが創造したあの映像は凄かった。高校生の頃に見たあの作品でアカショウビンは人生観、世界観が変わったと言ってもよいくらいの衝撃を受けた。

そのときに原作は読んでいなかったが、後年、映画の原作になったアーサー・C・クラークの諸作品を読み、それが新人類の誕生を示唆するものと知っても新たな感慨はなかった。あれは新人類でなくとも、ヒトの誕生がどういう過程で現象するか、といった存在論から神秘説へと至る危ういところで、ヒトという存在あるいは存在とは何か、という問いと相対する上で実に刺激的な映像だと思ったからだ。

しかし話はそこからだ。

そこで、この地球という惑星の存在と、そこに生息する生き物や我々人間、物体、総称すると「存在者」、とは何か、という問いは、かつてハイデッガーが発し、それに続き弟子や論争相手が更に関わり続けている問いである。

「形而上学入門」に書き残し、後にヴィクトル・ファリアスらに指弾されることになった問題の箇所は、この哲学者の思索の全体からすると瑣末なものともいえるが一応引用してアカショウビンも更に、その問いと自分なりに格闘していこう。

 「いわんや今日、国家社会主義(ナチス)の哲学として横行しているが、この運動の内的真理と偉大と(つまり地球全体の惑星的本質から規定されている技術と近代的人間との出会い)には少しも関係のないあの哲学のごときは、「価値」と「全体性」とのこの濁流の中で当てずっぽうに網打漁をしているのである」。(川原栄峰訳 平凡社 p323)

 「ディスカバリー」とは正にハイデッガーの言う「惑星的本質から規定されている技術と近代的人間との出会い」という存在でもあるのである。引用の( )の部分は後年、ハイデッガーが弟子達の助言を聞き入れて挿入したものとされている。しかしハイデッガーはナチスの「運動」の内的真理と偉大という表現を削除しなかった。ここにハイデッガーという人物(思想でなく、思想家でもない)の真骨頂があるとアカショウビンは思う。それは我が国の明治以降の「近代」を考えるうえで保田與重郎というウルトラナショナリストがこだわった「近代の否定」という思想スタンスとも反響・共鳴しているのである。

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戦艦大和ノ最期・初出テクスト(続き)

 先の臼淵大尉の持ち場は初出テクストでは哨戒長となっている。そして、大尉は薄暮の洋上に眼鏡を向けたまま低く囁くごとく言った、と記されている。

 「進歩ノナイ者ハ決シテ勝タナイ、負ケルコトガ最上ノ道ダ、ソレ以外ニドウシテ日本ガ救ワレルカ、今目覚メズシテイツ救ワレルカ、、俺達ハソノ先導ダ」。

 吉田さんは、この初稿を書いた後、1952年に創元社から出版されるまでに、何度も記憶を手繰り寄せ推敲を重ねられたと思われる。創元社版では次のように記されている。ただし、カタカナ交じりの歴史的仮名遣いの原文を、現代仮名遣いで育ったアカショウビンや若い人たちにも読みやすいように、句読点を付け現代仮名遣いに変えさせていただくことをお許しいただきたい。

 「進歩のないものは決して勝たない。負けて目覚めることが最上の道だ。日本は進歩ということを軽んじ過ぎた。私的な潔癖や徳義にこだわって、本当の進歩を忘れていた。敗れて目覚める。それ以外にどうして日本が救われるか。今目覚めずしていつ救われるか。俺達はその先導になるのだ。日本の新生に先駆けて散る。正に本望じゃないか」。

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2005年8月 9日 (火)

身捨つるほどの国家

きょうの毎日新聞夕刊で、呉を訪れた栗原俊雄氏が、レポートの中で、吉田 満は時おり寺山修司の歌を呟いていた、と書いておられる。それは「マッチ擦る つかのま海に 霧ふかし 身捨つるほどの 祖国はありや」という歌である。それは、アカショウビンも若い頃に寺山の政治的あるいは思想的スタンスを示す歌として様々な言説の中で引用されていたのを思い起こす。「戦後民主主義」という政治環境があるとすれば、その中でそれを切り捨てようとする「国家」という存在が「祖国」という言葉に現れている。

  だから、寺山修司の歌と、「戦艦大和ノ最期」で吉田さんが伝えている、副砲指揮官として戦死した臼淵 磐大尉の次の言葉は呼応しているのである。

 「進歩ノナイ者ハ決シテ勝タナイ。負ケテ目ザメルルコトガ最上ノ道ダ・・・今目覚メズシテイツ救ハレルカ。俺タチハソノ先導ニナルノダ。日本ノ新生ニサキガケテ散ル。マサニ本望ヂヤナイカ」(原文に句読点はなし)。

 また6月のブログで紹介した、先般亡くなった塚本邦雄の次の歌も。

 切って棄てたる愛国心の 残臭と微雨あけ 塵芥箱の濃紫陽花

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1945年8月9日午前11時2分

この日、アカショウビンも静かに60年前の広島、長崎での一瞬の死と、その後何日か何年か過酷に苦しみながら亡くなっていった人々の死と、戦場であるいは国内で無念に、あるいは毅然と、斃れていった人々の死に思いを致す。この世で生きるということはどういうことで、また死とは何か?一瞬にして、あるいは緩慢に、確実に死んでいく、ということはどういうことなのか?

 かつて岡倉天心は、茶道の奥義は不完全なものを敬うことで人生という不可解なもののうちに何か可能なものを成就しようというやさしい企てである、と述べている。天心の言や良し。

 アカショウビンも、「人生という不可解なもののうちに何か可能なものを成就しようというやさしい企て」を実行するべく日々を生き抜きたいと思う。

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2005年8月 7日 (日)

音霊(続き)

 今朝、「題名のない音楽会」(?)という番組を途中から観ていたら、多分、「音霊」のことだろう、ゲストの江原氏というオペラ歌手が音霊(おとみたま)と説明していた。アカショウビンの独創と思ったら何と先手を取られていたか(笑)。しかし、アカショウビンはそれを「おとだま」と読む。

 「おとみたま」という読みは保田與重郎が喜びそうな読みで、こちらのほうが意味するところを上手く言い当てているのかもしれない。しかしアカショウビンには「おとだま」という読みが「言霊」に対照して良い、と思う。だからアカショウビンは、これからもこれでいくつもりである。

 さて、昨日は広島、明後日は長崎の原爆慰霊日だ。アカショウビンも15日を通過しながら、せめて夏の終わりまでは、国家と己の生の行く末を、暑さに喘ぎながら蝉時雨を楽しみながら、思考を継続しようと思う。

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「待望の光明」(続き)

ハイデッガーは「形而上学入門」(原書は1953年刊、翻訳は1960年理想社から川原栄峰氏訳で発刊。1994年、平凡社から同氏の改訂で再刊)で、存在を限定するときに定式のように論議される存在と生成、存在と仮象、存在と思考、存在と当為という4つの区分にそって存在を思索している。

その中で彼は「存在と仮象」という区別を分析しながら、ソフォクレスの「オイディプス王」を引用する。周知のようにオイディプスは、自ら両眼を潰し荒野をさまよう運命を甘受した人物である。これをヘルダーリンが「美わしい青空に・・・花咲く」という詩の中で「オイディプス王はおそらく眼を一つ余計に持ちすぎているのだ」と予言者のような語句で説明している、とハイデッガーは次のように書いている。

「多すぎるこの一つの眼こそ、すべての偉大な問うことと知ることとの根本条件であり、またそれの唯一の形而上学的根拠である。ギリシア人の知と学問とはこのような激情である」と。

オイディプス王が、眼を潰して視えた心(意識)の世界とはどのようなものであるのか?それは視線が肉眼だけでなく意識の「世界」にも存在することを示唆している。ハイデッガーの存在論が盲目の人々の「世界」まで射程が及んでいるかアカショウビンは詳らかにしないが存在論における視線とは、そこまで分け入ってみる必要はあると考える。

先に引用した後期ハイデッガーの手紙の中でも引かれている「待望の光明」という不可解な語を説明するなかで彼が言う「「現にあること(Da-sein)」の開けとは、空き地(Lichtung)を耐え忍ぶこと[出で立つこと(Ausstehen)]」だ、という、これまた不可解な説明を理解するために、この「形而上学入門」で「オイディプス王」の最期のコロスの中に見える数行を引用したあと、彼が説明している次のような言説は少しは参考になるだろうか。それにしても難解ではあるが。

「いま、仮象するとは、存在の一変種として、転倒と同じものだということがわかる。それは、まっすぐ-自己の-中で-直立して-そこに立つことという意味での存在の一変種である。存在からのこの二つの偏向は、光の-中に-立つこと、すなわち現象することの存続性としての存在からその規定を得ている」。(同書p179~p180)

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2005年8月 4日 (木)

「待望の光明」

  「待望の光明」というハイデッガーの先の手紙(1967年9月24日)の中に出てくる語についてメダルト・ボスは尋ねたのだろう。それに答えてハイデッガーは、「非常に残念なのですが「光明(Lichtblicke)」と書く以外に正当なことが書けないのです」と答えただけ(1967年10月1日の手紙)のようだ。

 しかしハイデッガーの思索の中で「光」は重要な意味を持つ。それは仮象とも関連するだろう。いずれ「形而上学入門」の中の「存在と仮象」を再読し、光あるいは視線についてかんがえてみよう。

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2005年8月 1日 (月)

音霊

 別に奇を衒うわけではないが、言霊という言葉あるのだから音霊があってもよいのではないか、と思うのだ。ブルックナーの交響曲を聴いていると、そう思う。かつてガンジーは、英国人を通してであろうが西洋には東洋の魂と道徳がない、と述べたという。私は保田與重郎がそう書いているのを読み、西洋の人々にだって魂や道徳はあるだろう、と思うのだが、果たしてガンジーの真意と保田の言説はどれほど乖離し近いのか、いずれ突き止めてみたいが今はさておく。

 逆にアカショウビンはブルックナーの作品を聴きながら、彼が信仰したカトリック的あるいはキリスト教的文化土壌とは縁の薄い東洋人にとって崇高という概念は果たしてどのように存在しているのか、と問いたい衝動に駆られるのだ。ブルックナーの音楽の底にあるのは神の賛美と崇高なるものを音で表現しようという強靭な意志とでもいうものである。ブルックナーは日本人にはわからないだろう、と吉田秀和氏は彼方の人から言われて、そうかもしれないと書いていたのではなかったか。吉田氏もまたブルックナーは好きではないらしい。しかしアカショウビンは20代の前半の若い頃にブルックナーを聴いて以来この長大な交響曲作家とは飽きることもなく付き合っている。その理由は、この音楽を聴いていると、そこに貫かれていると思う崇高という概念に興味をかきたてられるからだ。

 そこで音霊という造語を提案してみるのだが。

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