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2005年7月 5日 (火)

エリー・ナイというピアニスト

エリー・ナイのベートーヴェン「悲愴」は1967年に録音されているが、これを聴いても返す返すソナタ全曲が録音されていないのが痛恨の極みだ。このベートーヴェンは殆ど生身のベートーヴェンとしか思えない。これは楽譜をなぞっている演奏ではない。作曲者が楽譜を刻んでいるのと同じ時間を共有しているとしか思えない演奏だ。28歳から29歳のベートーヴェンの精神と境地が、ここで見事に一人のピアニストを通して具現化されている、と聴き取れる。そのピアニストは何と85歳で、亡くなる1年前の演奏なのだ。腰を抜かすしかない。

人間の可能性とは、ある人を通じて、実に信じられない行為を成し遂げさせるものだ、という見本がこの記録だ、と魂消る。

同年はメンデルスゾーンの「無言歌」から5曲も録音している。12枚組みのセットの9枚目。2曲目の作品19第1番アンダンテ・コン・モトと4曲目、作品62第6番アレグロ・グラチオーゾは馴染み深い曲だが、後者は諦念とも言える哀感と寂寥が感じられる。

その哀感と寂寥は同じく、同じCDにまとめられているシューベルトの作品90の即興曲第3番にも聴かれる。これは1961年の録音。作品90はシューベルトの死の前年1827年に書かれたもので、1964年に録音された4番も続けて収められている。この年には「楽興の時」の2番から4番、最後はシューベルトの作品142の即興曲から4番ヘ短調が収められている。

この作曲の年代を見て気づくのは作品90142の即興曲も「楽興の時」もシューベルト没年の1年前の1827年に作曲されているということだ。31歳でこの世から去った天才がもっと生きていたらどんな作品が生まれたかと想像するのは無益なことだろうか。楽興の時の2番の曲想の哀感はナイの演奏にも深く共感されている。それは続く3番へ短調と4番の嬰ハ短調でも同じだ。それが老いぼれたピアニストの技術の衰えで聴かれるもので決してないのは、続く作品142の即興曲の4番へ短調を聴けばはっきりする。

何とたいしたピアニストであることか。

シューベルトの作品90の即興曲。この61年の録音と続く64年の楽興の時の4番に聴こえるナイの演奏はシューベルトという人間の夢想と孤独と哀切を伝えて余りない演奏だ。

 技術的には確かに運指はまだるっこしい。無言歌もしかり。しかし演奏は技術では決してない、ということを、このピアニストから愕然とするほど感じる。

 ベートーヴェンは、何度も聞いてみたいと思う。ルバートの多用というよりテンポの動かし方がフルトヴェングラーと合い通じるとさえ思う。ベートーヴェンもメンデルスゾーンもシューベルトもショパンも、このピアニストの音楽は作品の中核に全身全霊で参入しているという印象がある。それは、まるで優れた禅者が「事の本質」を体得しているのと同じように感じる。道元の言う「感応道交」だ、それは。

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