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2005年7月31日 (日)

視線あるいは画家

画家とは、どういう存在なのか。 

  NHKの日曜美術館「戦没画学生・カンバスに刻んだ青春」という番組を見た。若くして戦場に斃れた画家や画学生の作品を見て痛切な思いに駆られたのはアカショウビンだけではあるまい。死んだ場所は、内蒙古であり、ニューギニアであり、満州であり、フィリッピンであり、ビルマである。戦後生まれの私達も「ビルマの竪琴」という映画や小説、手記、演劇、ドラマなどを通して歴史に考えをめぐらす。その闘いが、思想的背景がどういうものだったか。私達は、生き残った人々の証言や小説、映画、演劇などで解釈され脚色されたものを見て過去と対峙する。事実は人々の記憶やモノを通じて持続し今に継承される。あるい行き過ぎ無視される。現実には、そのようなものではないとか、いやそうだったとか。 

 画学生達の残された作品を見ても描いた本人は既に存在していない。その作品を見て私達はそれぞれで作者達を想像するだけだ。そこでアカショウビンは、ふと考えるのだ。その絵を見て触発される私という存在とは何か?私の視線とは何か?あるいは眺める、という動作はヒトにとってどういう意味を持つのか、と。それは画家とそうでない者と、どれほど異なり、そこに人間の本質を露呈させるのか、と。ハイデッガーなら、画家とは空間を視つめつつ時間を介在し現に在ることを思考する存在、と説くかもしれない。 

 昨夜、「ヒトラー~最期の12日間~」という映画を観てきた。先の画家や画学生たちの作品を見た後にこの作品を見て、アカショウビンは自らの視線と、それぞれの観客の視線が気になり「視線とは何か」という問いを立てて見ようと思いたった。

 この作品で過去は解釈され脚色されている。しかし、その対象が対象だ。そこにはヒトラーという人間に光が当てられ、その周囲の人々が、原作者の証言を通しておそらく忠実に活写されている。映画館の中では、様々なドキュメンタリー映像や著作、その周囲の人々のコメント、あるいは幾多の演劇、評論を通じて、ヒトラーという人物について、それぞれにイメージを持っている人々と、この作品が対峙する。こんな作品を今ごろ公にするとは果たしてどういう意味を持つのか?あるいは、あの独裁者を人間的に描くとは何と卑劣な作品か!あるいは、いや恐らく実際のヒトラーとはあんな人物だったに違いない、と作品に対峙する者それぞれに感想があるはずだ。 

 その対象は人類の中でも最悪の極悪人として数えられる人物である。しかし作品では原作者の証言を通じてヒトラーという人物は小心でヒステッリックだが時に優しさを持った人物としても描かれている。果たしてドキュメンタリーフィルムで視たり著作から想像する人物像と脚色され解釈された人物像はどれくらい乖離し近いのか。作品ではユダヤ人を抹殺した事実は会話の中に出てくるだけだ。ユダヤ人からすれば急所を描かない作品と吐き捨てられるかもしれない。あるいはナチズムの同調者からは共感されているのかもしれない。 

 戦後60年が過ぎゆく現在、私達が日本人として、人間として、現在に生きる者として過去と向き合うには、この夏はよい機会だ。アカショウビンもまたいろいろな文章や映像と対峙しながら、私達の国とはどういう国なのか。ヒトにとって視線とは何か、存在とは何か、時間とは?と思考をめぐらし夏を過ぎて行くだろう。

 そういえばヒトラーも画学生だったのだ。 

  

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