« 「戦艦大和の最期」・初出テクスト | トップページ | ヤスパース「戦争の罪を問う」 »

2005年7月10日 (日)

初恋のきた道

この作品は、「東京」という都会に住む私に「何か」を問いかけてきた。映画を見終わった後、外に出ると人で沸き返る渋谷の雑踏だった。作品は素朴な恋物語、家族史(二人の出会いと恋物語の語り手は、その息子だ)だが、そこには、あるリアリティがあり、「何か」が問われている。

「何か」とは「人の生きる時間」とも言えるし、「人間」と括ってもよい。ヒロインに向けられるキャメラは時に冗長になるが河北省(最後のクレジットには、そう地名が記されていた)の広大でのびやかな自然の映像は素晴らしい。それにしても、その村の貧しさはどうだろう。そこで人が生きて生活していた事実の方が恋物語よりもリアリティをもって迫ってくるようでもあった。

父であり母の憧れの人であったその人が読む、自分で作ったという教科書の文章の文句が良い。若い教師は晴朗な声で、このように教えたのであった。

「人、世に生まれたならば、志あるべし。書を読み、字を習い、見識を広める。字を書き、計算ができること。どんなことも筆記すること。今と昔を知り 天と地を知る」。

娘は若い教師の朗読の声に魅了されたのだった。

母は字が読めぬが、分からない言葉も父が読むだけで感動できた、とその息子は語る。その日以来、母は父の声を毎日聴きに学校まで通ったという。それは母の生活の一部となった。

金色に輝く村の秋の風景の中で、若い教師と幼い生徒たちが連れ立って歩く光景は母親にとって生涯忘れられない光景なのだ。それは永遠が姿を現したように美しく彼女の脳裏には刻み付けられた。

若い教師が町を去らねばならない事を娘に伝えに来た時、髪留めを贈り物にする。夕食を娘の家へ食べに来る約束が果たせず、教師は村を去る。

彼を追い、娘は餃子を入れた丼を持ち、金色のなだらかな草原を走る。そして娘は丼を落とし割ってしまう。それを持ちかえる時に髪留めがないのに気付く。それから何日も母はそれを探して歩いた、と息子は語る。それは、娘が走って転んだ草原にではなく家の門の近くに落ちていた。

娘が割ってしまった丼を、眼の見えない母親は買ったほうが安いよ、という初老の修理職人に、娘が食べてもらいたい人の使った丼だから、と答え修理する。娘はそれを発見して泣く。それを観る私も泣く。その心情を説明してどうなろう。言葉では尽くせないものがそこには存在するからだ。恩師の棺を教え子達が担いで村へ帰る。担ぎ賃は一銭も要らないそうだ、と金を返しながら村長が息子に告げる。

家まで棺を担ぎ戻った夜に母親は父の真情を息子に伝える。息子は、その真意を汲み取る。

かつて、父が四十年間立ち続けた教壇に立ち、父が創って子供達に朗読した教科書を、子は子供達に読んで聞かせる。父がそうしたように。それを母が聞く。

先の教科書の文章は更に、こう続く。

「四季は春夏秋冬。天地は東西南北。どんな出来事も心に留めよ。目上の人を敬うべし」。

どんな出来事も心に留めよ。文字の読めない母親が文字ではなく、心に留めた時間を息子は父の文章を読むことで心に甦らせたはずだ。

|

« 「戦艦大和の最期」・初出テクスト | トップページ | ヤスパース「戦争の罪を問う」 »

コメント

アカショウビンさんの文を追っているうちに『初恋のきた道』の幾つもの場面が、鮮やかに脳裏に甦るのを感じました。あの先生の教科書の言葉は、おそらく五十年以上前の日本の小学校の授業風景を彷彿とさせる郷愁があります。いやもっとはるか昔、明治の頃かもしれない。ひとは憧れに向かってひたむきになるとき、その輝きの純度を増す。チャン・ツィイーの可憐さを見事に映像の中に活かしきった演出が、この映画を観るものの心に誰もが覚えのある、懐かしいみずみずしい情感を蘇らせる。中国の一寒村の美しい背景がその初恋の成就と人生の光芒を彩る。

投稿: スタボロ | 2005年7月10日 (日) 午後 07時38分

 スタボロさんコメントありがとうございます。チャン・イーモウの最近の作品には首を傾げざるをえないアカショウビンですが「活きる「菊豆」「この子をさがして」などを見れば優れた才能であるのは衆目の一致するところでしょう。
 日本映画はどうしたんでしょうね。洋高邦低がずいぶん続いています。先日観た「ミリオン・ダラ・ーベイビー」を見てもそれは実感しました。クリント・イーストウッドは正に円熟の境地ですね。

投稿: アカショウビン | 2005年7月11日 (月) 午後 09時26分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/111335/4907961

この記事へのトラックバック一覧です: 初恋のきた道:

« 「戦艦大和の最期」・初出テクスト | トップページ | ヤスパース「戦争の罪を問う」 »