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2005年7月31日 (日)

視線(補足)

視線あるい眼差しについて思索し、存在するとはどういうことか、とハイデッガーは戦後も思索を続けていた。1967年にメダルト・ボスに宛てた手紙の中で彼は次のように書いている。

「待望の光明」(erhoffte Lichtblicke)については、それが何よりもまず経験(エァファーレン)と眼差し(ブリッケン)の転換にかかわるだけに、ほとんど伝達不可能です。「現にあること(Da-sein)」の開けとは、空き地(Lichtung)を耐え忍ぶこと[出で立つこと(Ausstehen)]「である(ist)」のです。空き地と「現にあること」とはそもそもの始めから共属(zusammengehoren)しており「共(zusammen)」という形で両者を規定する統一は生起(Ereignis)なのです。この領域の次元に入る最良のやり方は、私が『自同律』についての講演で述べていることをもうー度考え抜き、その参考として『存在の問いによせて』という小冊子を読まれることです。(「ツォリコーン・ゼミナール」p399 1991年刊行) 

アカショウビンも視線について思考を持続しながら、存在について思索を深めていこう。

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視線あるいは画家

画家とは、どういう存在なのか。 

  NHKの日曜美術館「戦没画学生・カンバスに刻んだ青春」という番組を見た。若くして戦場に斃れた画家や画学生の作品を見て痛切な思いに駆られたのはアカショウビンだけではあるまい。死んだ場所は、内蒙古であり、ニューギニアであり、満州であり、フィリッピンであり、ビルマである。戦後生まれの私達も「ビルマの竪琴」という映画や小説、手記、演劇、ドラマなどを通して歴史に考えをめぐらす。その闘いが、思想的背景がどういうものだったか。私達は、生き残った人々の証言や小説、映画、演劇などで解釈され脚色されたものを見て過去と対峙する。事実は人々の記憶やモノを通じて持続し今に継承される。あるい行き過ぎ無視される。現実には、そのようなものではないとか、いやそうだったとか。 

 画学生達の残された作品を見ても描いた本人は既に存在していない。その作品を見て私達はそれぞれで作者達を想像するだけだ。そこでアカショウビンは、ふと考えるのだ。その絵を見て触発される私という存在とは何か?私の視線とは何か?あるいは眺める、という動作はヒトにとってどういう意味を持つのか、と。それは画家とそうでない者と、どれほど異なり、そこに人間の本質を露呈させるのか、と。ハイデッガーなら、画家とは空間を視つめつつ時間を介在し現に在ることを思考する存在、と説くかもしれない。 

 昨夜、「ヒトラー~最期の12日間~」という映画を観てきた。先の画家や画学生たちの作品を見た後にこの作品を見て、アカショウビンは自らの視線と、それぞれの観客の視線が気になり「視線とは何か」という問いを立てて見ようと思いたった。

 この作品で過去は解釈され脚色されている。しかし、その対象が対象だ。そこにはヒトラーという人間に光が当てられ、その周囲の人々が、原作者の証言を通しておそらく忠実に活写されている。映画館の中では、様々なドキュメンタリー映像や著作、その周囲の人々のコメント、あるいは幾多の演劇、評論を通じて、ヒトラーという人物について、それぞれにイメージを持っている人々と、この作品が対峙する。こんな作品を今ごろ公にするとは果たしてどういう意味を持つのか?あるいは、あの独裁者を人間的に描くとは何と卑劣な作品か!あるいは、いや恐らく実際のヒトラーとはあんな人物だったに違いない、と作品に対峙する者それぞれに感想があるはずだ。 

 その対象は人類の中でも最悪の極悪人として数えられる人物である。しかし作品では原作者の証言を通じてヒトラーという人物は小心でヒステッリックだが時に優しさを持った人物としても描かれている。果たしてドキュメンタリーフィルムで視たり著作から想像する人物像と脚色され解釈された人物像はどれくらい乖離し近いのか。作品ではユダヤ人を抹殺した事実は会話の中に出てくるだけだ。ユダヤ人からすれば急所を描かない作品と吐き捨てられるかもしれない。あるいはナチズムの同調者からは共感されているのかもしれない。 

 戦後60年が過ぎゆく現在、私達が日本人として、人間として、現在に生きる者として過去と向き合うには、この夏はよい機会だ。アカショウビンもまたいろいろな文章や映像と対峙しながら、私達の国とはどういう国なのか。ヒトにとって視線とは何か、存在とは何か、時間とは?と思考をめぐらし夏を過ぎて行くだろう。

 そういえばヒトラーも画学生だったのだ。 

  

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2005年7月29日 (金)

消極的な腐敗物

竹中 労の「琉球共和国 汝、花を武器とせよ」は、その破れかぶれとも見える生き様と独特の文体が「竹中節」というものだが、彼が生きた時代の空気が伝わってくるのも確かだ。「ルンペン・プロレタリア階級、旧社会の最下層から出てくる消極的なこの腐敗物は、プロレタリア革命によって時に運動に投げこまれることはあっても、その全生活状態から見れば反動の策謀に利用される危険が多い」という共産党宣言の文言に彼がこだわるのは私も共感する。 

それにしても、その文章を読みながら朝のテレビの女性アナウンサーの姿形を見ていると、何と小奇麗で日本人離れした格好か、と改めて思うのだ。竹中のペンで活写される人や風景と、そういったテレビの一場面から直感する現在の私達の存在する「今」の隔たりは大きい。

 もちろん、それを否定する立場もある。隔たっているのは時間だけで中身は殆ど同じようなものだ、というように。

香港の水上生活者達の生活は今も竹中が訪れた頃とさほど変わってはいないだろう。山谷も然りと思われる。しかしテレビに映る映像は、あの頃とは確実に変わっているだろう。しかし、それを進化というのか、進歩というのか、はたまた洗練、というのか。

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2005年7月23日 (土)

歴史とは?

 

「スター・ウォーズ エピソード3」の宣伝で来日した監督のG・ルーカスはインタビューに答えて次のように話したという。

 「民主主義が、民主主義的手続きを経て専制政治に行き着く、という例はシーザーの時代から歴史の繰り返し。人間は知的にいくらか進歩しても、感情的には不変だ」(毎日新聞7月13日夕刊)。

 それは、この作品が9・11に至る、また恐らく現在も変わらぬ米国の覇権主義的あるいは帝国主義的現実を色濃く反映していることへの氏のコメントだ。この認識は、いちおう歴史を学んでいる者の言ではある。しかし、それだけでは、自国のイラク戦争を追認しているだけだ。話は、そこから展開させなければならない。

 そこでインタビュアーは一歩踏み込み、「あなたは人間というが、それはあなたたちの米国という国家と国民の大半は、というべきではないか」と問うてみるべきだった。また「果たして感情的には不変だろうか?」とも。

 文学が政治的であるように、また映画も政治的であるだろう。しかし、もちろん作品の仕上がりは、そこから一線をおいて論ずることが出来る。

 そこのところで、この作品の価値は、と自問してみれば、陳腐と背中合わせの、まぁまぁ、というのがアカショウビンの感想だ。陳腐という理由は、巷間、持ち上げられる、主人公が悪の世界へ引きずり込まれていく過程がよく描かれている、という、そこのところが、さして面白いとも思われなかったからだ。

 そこで先日観た「ミリオンダラー・ベイビー」を持ち出すのは場違いだが、監督の、人間を見る視線の深さとでもいう力量は残酷なくらい歴然としていると思った。

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2005年7月17日 (日)

清水登之という画家

 NHKの日曜美術館で清水登之という画家を取り上げていたのを興味深く見た。戦争に翻弄された一端を氏の娘さんが語る話には触発された。氏は長男を戦争で亡くし、そのショックがきつかったのであろう、急性の白血病で敗戦の年の12月に亡くなった。死に至るまでの子を亡くした親の嘆きを伝える経緯は痛ましかった。

 亡くなる年まで書き続けた日記を通して見える父子の関係は海外生活が長かったとはいえ平均的な日本人だったように思われる。その中では、長男を溺愛した様子を妹がさりげなく語る姿に家族の姿が垣間見えて印象に残った。戦後、恐らく画家は戦争協力者として黙殺されたのだろう。しかしその作品は優れた仕事だと私は思った。

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2005年7月15日 (金)

「時間」について

 秀作「泥の河」を撮った小栗康平氏が毎日新聞の7月11日夕刊で述べているコメントは重要である。

 「日本人の自然のとらえ方は明らかにヨーロッパ的な遠近法とは違います。映画でいうヨーロッパ的手法とは人間を中心に置いて言語で物語を進めることです」という認識の下に新作「埋もれ木」を作ったとのことである。アカショウビンは、そのスチール写真を見た時、キューブリックの「2001年宇宙の旅」のモノリスを連想したが映画好きにとって、その直感はあながち誤ってもいないだろうと思う。

 新作では、「時間を多層的なものとして見つめようとしたことです。映画には、時間の流れが変えられないという考え方が強くあります。映画の中に過去や幻想が入ってくることがあったとしても、物語が持つ時間は一つです。物語とも呼べない単純な作りであっても、空間の方はいくらでも選択できる。ハリウッド映画はそうやって楽しいだけの映画をまき散らしています。でも僕たちの時間感覚とは本来そのような単一なものではありません。時計が刻む時間もあれば、心の時間もあるはずです」と述べられているのは傾聴すべき時間論だ。アカショウビンにとって「時間論」は生きている間に格闘し続ける相手なのだが、それは「2001年宇宙の旅」が契機になっていることに今気付いた。しかし、これを持続するのが難しい(笑)。

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奇妙な国

ヤスパースの提出した視角を意識しながら、私達は日本人として先の大戦を経験した人たちの発言にも注意を向けなければならない。

「戦争と人間」の著者、五味川純平氏は1943年に招集され1945年8月13日、ソ満国境でソ連軍機械化部隊の砲火にさらされた部隊158人のうち生き残りの4人の一人である。氏は「人間の条件」6巻、「戦争と人間」18巻(三一新書版)で戦後に粘り強く自らの経験を思考し抜いた。次のような回顧は保田與重郎からすれば誇り高い自らの歴史を省みない左翼的な視点ということになるだろうが傾聴に値する。

「我が祖国はまことに奇妙な国である。すがすがしい想いを国民にさせたことがない。国も、同胞の少なからぬ部分も、大小の悪事をごまかすことを最大の急務と心得ているかのようである。悪者のみが栄えて権勢をふるい、少数の正直者、善悪の区別を知って悪に加担しない者は悪者たちの残飯で辛うじて生きているという、情けない、みっともない状態がこの島国全土を蔽っている」。

  これに対照する保田與重郎のウルトラぶりとは、次のようなものである。

 「我が民族の歴史は、皇孫の降臨という一点より拡大されたものであった。この一点が、時空にわたる民族の全構成の中心だったのである。神話と歴史と生活の緊密な重なり合いと結びつきの、中心とも、要とも言うべきところに存在するのが現在の天皇であり、その天皇はつねに皇孫にて、皇位継承の実が、生々発展と永遠性の神話の証となるのである。しかもその三者に於いて、重点となるのは天上の風儀を地上に現す正業の生活である」(述史新論)94頁)

 このような幅の論説空間の間で私達はヤスパースの視角を考慮していかなければならない。それは難渋さとは別に充分な収穫も予感しながら。

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2005年7月12日 (火)

ヤスパース「戦争の罪を問う」

 前に書いた記事を修整しようとしたら出来なかったので、一度削除し一部修整して再掲する。

 ヤスパースは戦後の講義の中で学生たちに戦争の罪を4つに区別して説明している。①刑法上の罪②政治上の罪③道徳上の罪④形而上の罪、である。このうち④が私達も再考すべきヤスパースの視点である。この講義は出版されハイデッガーにも献呈されたがハイデッガーはヤスパースへのお礼の手紙の中で、別の作品に言及するのみで、この論文(講義)を論評しなかった、というよりまったく無視した、といういきさつから、二人の間で、この論文の行間に潜む意味は私達には別の文脈で興味深い。その一端は既出の記事で説明しているのでご参照いただきたい。ここでは④の意味するところを、我が国の鎮魂の日に向けてアカショウビンも一人の国民として思考していきたい。ヤスパースは④を次のように説明している。

 「私が他人の殺害を阻止するために命を投げ出さないで手をこまねいていたとすれば、私は自分に罪があるように感ずるが、この罪は法律的、政治的、道徳的には適切に理解ができない」。この箇所は加藤典洋氏が解説で説いている我田引水的な論調とは別に熟考すべき本書の中核の論点である。

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2005年7月10日 (日)

初恋のきた道

この作品は、「東京」という都会に住む私に「何か」を問いかけてきた。映画を見終わった後、外に出ると人で沸き返る渋谷の雑踏だった。作品は素朴な恋物語、家族史(二人の出会いと恋物語の語り手は、その息子だ)だが、そこには、あるリアリティがあり、「何か」が問われている。

「何か」とは「人の生きる時間」とも言えるし、「人間」と括ってもよい。ヒロインに向けられるキャメラは時に冗長になるが河北省(最後のクレジットには、そう地名が記されていた)の広大でのびやかな自然の映像は素晴らしい。それにしても、その村の貧しさはどうだろう。そこで人が生きて生活していた事実の方が恋物語よりもリアリティをもって迫ってくるようでもあった。

父であり母の憧れの人であったその人が読む、自分で作ったという教科書の文章の文句が良い。若い教師は晴朗な声で、このように教えたのであった。

「人、世に生まれたならば、志あるべし。書を読み、字を習い、見識を広める。字を書き、計算ができること。どんなことも筆記すること。今と昔を知り 天と地を知る」。

娘は若い教師の朗読の声に魅了されたのだった。

母は字が読めぬが、分からない言葉も父が読むだけで感動できた、とその息子は語る。その日以来、母は父の声を毎日聴きに学校まで通ったという。それは母の生活の一部となった。

金色に輝く村の秋の風景の中で、若い教師と幼い生徒たちが連れ立って歩く光景は母親にとって生涯忘れられない光景なのだ。それは永遠が姿を現したように美しく彼女の脳裏には刻み付けられた。

若い教師が町を去らねばならない事を娘に伝えに来た時、髪留めを贈り物にする。夕食を娘の家へ食べに来る約束が果たせず、教師は村を去る。

彼を追い、娘は餃子を入れた丼を持ち、金色のなだらかな草原を走る。そして娘は丼を落とし割ってしまう。それを持ちかえる時に髪留めがないのに気付く。それから何日も母はそれを探して歩いた、と息子は語る。それは、娘が走って転んだ草原にではなく家の門の近くに落ちていた。

娘が割ってしまった丼を、眼の見えない母親は買ったほうが安いよ、という初老の修理職人に、娘が食べてもらいたい人の使った丼だから、と答え修理する。娘はそれを発見して泣く。それを観る私も泣く。その心情を説明してどうなろう。言葉では尽くせないものがそこには存在するからだ。恩師の棺を教え子達が担いで村へ帰る。担ぎ賃は一銭も要らないそうだ、と金を返しながら村長が息子に告げる。

家まで棺を担ぎ戻った夜に母親は父の真情を息子に伝える。息子は、その真意を汲み取る。

かつて、父が四十年間立ち続けた教壇に立ち、父が創って子供達に朗読した教科書を、子は子供達に読んで聞かせる。父がそうしたように。それを母が聞く。

先の教科書の文章は更に、こう続く。

「四季は春夏秋冬。天地は東西南北。どんな出来事も心に留めよ。目上の人を敬うべし」。

どんな出来事も心に留めよ。文字の読めない母親が文字ではなく、心に留めた時間を息子は父の文章を読むことで心に甦らせたはずだ。

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2005年7月 9日 (土)

「戦艦大和の最期」・初出テクスト

 

人の死とは何か。また、この世で生きるという事とは何か。それはどう意味づけられるのか。かつてかかわりがあった人の死や生き物の死に遭遇するたびに、それは間欠泉のように吹き上がる思いである。私達は生きている間に幾つもの死や死体を眼前にする。それは人であり、動物であり、鳥類であり、魚類であり、昆虫であり、ゴキブリであり、蚊であり、諸々である。「戦艦大和の最期」の著者である吉田満氏にとっては大和で死んでいった人々の死であり、先輩や戦友の死であり、また親族をはじめ氏が出会った様々な死であろう。

 昨日、書店を覗き保阪正康氏編の -「戦艦大和」と戦後 吉田 満-(ちくま学芸文庫)という書物を発見し購入した。なぜまた昨今、大和がブームなのか私は知らない。まさか右傾化によるものとも思いたくはない。しかし、この国、とあえて私は突き放して書く。この国の戦後史の中で1952年にやっと出版された創元社の初出本「戦艦大和ノ最期」から、この著作が戦争にかかわった軍人と文学好きと幾人かの国民に共感とまた反発を招いた象徴的な作品である事は確かだ。あえて作品と書くが、それは戦闘記であり報告書として最初は書かれた。しかし戦後の米軍の統制下で検閲され原文は出版事情によって何度か改変された。その経緯と後の若い人々によって、この著作がどのように読まれたかは、著者とは十数歳下の学生として左翼運動にも関わったという編者の保阪氏の文章を読めば了解できる。

 この著作は私も学生の頃に読み、その後何度か読み返し、そのたびに触発される文章である。それは戦闘記として興味深く、また私達の親の世代の戦争が、国家が伝える歴史としてでなく偶然のような機会を経て読める歴史の稀有の一幕を伝える記述として貴重というしかない。その戦闘の実態の生々しさと文章の痛烈さは読む者を震撼させる。時代こそ違え同年代の若者の文章とは思えない完成度をもつ文章として私は読んだ。

何年か前に江藤淳氏が、米国でその原文を発見したことを月刊誌で読み確認した。それは出版されたものとは異なる迫力と痛切な美しさを持つ文章だった。結語の「至烈ノ闘魂、至高ノ錬度、天下ニ恥ヂザル最期ナリ」という初出の文を読み得た時、私は吉田さんの思いを根底で聴き得た思いがした。あえて吉田さんと書かせていただく。戦後生まれの私にとって吉田さんは僭越ながら、そのように呼ばせていただきたい存在なのである。私は、この時期になると吉田さんの戦後の文章が読みたくなる。戦後六十年とは、この東アジアの民衆、大衆、市民、人々にとって干支が五周期する節目の年である。この年に出版する出版社の意図はともかく、この初出の文章が文庫になり読める事は評価する。この夏に首相が靖国に参ることにマスコミはピンからキリまで馬鹿騒ぎをするだろう。しかし私にはそれと若干の関係を持ちながら今年の夏も鎮魂の思いで「歴史」と正面する時である。それ以外は黙殺すべき騒音でしかない。私にとっては静かに、人の死、生き物の死、この世に存在することの不思議と関心と興味を持続しながら、いずれ来る死を迎える予行演習とでも言うしかない時である。


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2005年7月 5日 (火)

エリー・ナイというピアニスト

エリー・ナイのベートーヴェン「悲愴」は1967年に録音されているが、これを聴いても返す返すソナタ全曲が録音されていないのが痛恨の極みだ。このベートーヴェンは殆ど生身のベートーヴェンとしか思えない。これは楽譜をなぞっている演奏ではない。作曲者が楽譜を刻んでいるのと同じ時間を共有しているとしか思えない演奏だ。28歳から29歳のベートーヴェンの精神と境地が、ここで見事に一人のピアニストを通して具現化されている、と聴き取れる。そのピアニストは何と85歳で、亡くなる1年前の演奏なのだ。腰を抜かすしかない。

人間の可能性とは、ある人を通じて、実に信じられない行為を成し遂げさせるものだ、という見本がこの記録だ、と魂消る。

同年はメンデルスゾーンの「無言歌」から5曲も録音している。12枚組みのセットの9枚目。2曲目の作品19第1番アンダンテ・コン・モトと4曲目、作品62第6番アレグロ・グラチオーゾは馴染み深い曲だが、後者は諦念とも言える哀感と寂寥が感じられる。

その哀感と寂寥は同じく、同じCDにまとめられているシューベルトの作品90の即興曲第3番にも聴かれる。これは1961年の録音。作品90はシューベルトの死の前年1827年に書かれたもので、1964年に録音された4番も続けて収められている。この年には「楽興の時」の2番から4番、最後はシューベルトの作品142の即興曲から4番ヘ短調が収められている。

この作曲の年代を見て気づくのは作品90142の即興曲も「楽興の時」もシューベルト没年の1年前の1827年に作曲されているということだ。31歳でこの世から去った天才がもっと生きていたらどんな作品が生まれたかと想像するのは無益なことだろうか。楽興の時の2番の曲想の哀感はナイの演奏にも深く共感されている。それは続く3番へ短調と4番の嬰ハ短調でも同じだ。それが老いぼれたピアニストの技術の衰えで聴かれるもので決してないのは、続く作品142の即興曲の4番へ短調を聴けばはっきりする。

何とたいしたピアニストであることか。

シューベルトの作品90の即興曲。この61年の録音と続く64年の楽興の時の4番に聴こえるナイの演奏はシューベルトという人間の夢想と孤独と哀切を伝えて余りない演奏だ。

 技術的には確かに運指はまだるっこしい。無言歌もしかり。しかし演奏は技術では決してない、ということを、このピアニストから愕然とするほど感じる。

 ベートーヴェンは、何度も聞いてみたいと思う。ルバートの多用というよりテンポの動かし方がフルトヴェングラーと合い通じるとさえ思う。ベートーヴェンもメンデルスゾーンもシューベルトもショパンも、このピアニストの音楽は作品の中核に全身全霊で参入しているという印象がある。それは、まるで優れた禅者が「事の本質」を体得しているのと同じように感じる。道元の言う「感応道交」だ、それは。

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