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2005年6月 5日 (日)

「戦争の罪を問う」(続き)

カール・ヤスパースの「戦争の罪を問う」は日本語版で出版されたことで原書とは異なる文脈で読むことも出来る本になったと思う。原題は「Schuldfrage(責罪)」。この書はヤスパースが敗戦後のドイツで一国民として、どう生きるべきなのか、あるいは生きられるのか、という問いを立て、ハイデルベルク大学で1945年から1946年の冬学期に講義した原稿を基に出版したものである。その重要な問題提起は先にあげた4点である。ここではアカショウビンが考える同書を通して喚起された異なる論点を挙げてみる。

同書は日本版として故橋本文夫氏の翻訳で1998年の8月15日に出版された。その日付を見れば、ある意図が読み取られるわけだが、それとは別に、解題を書いている福井一光氏がハイデッガーとの確執を述べている箇所は違う文脈でヤスパースとハイデッガーの思考の違いを際立たせていて興味深いのである。というのも戦前には、学問的に解き明かそうとした事態への共通の関心を確認した二人が、ナチスがドイツを席巻していくなかで次第に乖離していく経過も説明されているからだ。それは既に1980年代後半にヴィクトル・ファリアスの「ハイデガーとナチズム」(日本版199010月)やデリダ(注)、フィリップ・ラクーラバルト(注)、リオタール(注)の論考やアドルノ、レヴィナスらのハイデッガー論を読めばヨーロッパの哲学史でハイデッガー哲学が、いかに無視できないものなのかということがわかる。フランスで端を発したハイデッガー論争以来、現在も継続していると思われるハイデッガーという「謎」に対する私の興味とも関連しているので、ここに、この本を思考の材料として挙げる次第である。

(注)フィリップ・ラクーラバルトの「政治と虚構」(1988)の日本版は1992年出版、それに応じたジャンフランソワ・リオタールの「ハイデガーとユダヤ人」(1988年)の日本語版も1992年に出版されている。また「私は、亡霊と炎と灰とについてお話ししようと思う」(港道隆訳)という切り出しで1987年3月14日に行われたジャック・デリダの「ハイデッガー開かれた問いの数々」という演題の国際哲学研究院での講演は「精神について」(1990年人文書院刊)という本になっている。

ハイデッガーの方法論に対するヤスパースの考えは、解題を書いている福井一光氏によると、次のようであったと述べている。(p 213)

しかし、この一見厳密に見える方法論へのこだわりは、存在の本来の在り方である実存を解明するには、自分が一個の実存として呼びかけ訴えかける自らの実存経験を通してのみ初めて可能になると考えるヤスパースから見ると、終始解釈学的現象学という思弁的な道具立てを操作する知的方法によってしか実存を確実に理解することはできないと見做す、なお観念論的議論に止まるものであり、もしそれがハイデッガーの哲学であるのだとすれば、彼の実存を問題にする哲学は、新たな思弁哲学を招来させるものにしかならないではないかと映るのである。否、それどころか、こうした方法論に固執するハイデッガーの哲学は、かえって観念論的体系と、その知的エリート主義の中で実存的真摯さを窒息させてしまうもののようにさえ思われたのである。

そしてヤスパースはこう断言したという。

 「心の交流というこの根本的経験にもとづいて哲学を呈示するということは『作品』としての体系構成ということを意味するでしょうが、そうした体系構成は私にはおそらく無縁のものです。哲学的思索は私にとってはつねに、それが言語の公共性のなかへと入ったかぎりにおいては、たんに現実のひとつの側面を成すものであるにすぎないように思われます。・・・(中略)・・・それは、時として入りこんでくる付随的な瑣末な事柄に当てはまりますが、問題事象そのものには当てはまらないでしょう」と。

 そして福井氏は次のように述べる。

かくて事態にたいする思索と体験の仕方における決定的な相違を、これまではお互いの内面の自覚の陰に止めてきた二人は、その相違を、正に二人の人生の根幹に関わる最も微妙な責罪の問題をめぐって表面化せざるを得ないところまで至ったのである。

この経緯をアカショウビンは哲学には少なからぬ関心を持ちながら十数年前ににフランスで沸き起こったハイデッガー論争をきっかけにハイデッガーの「存在と時間」を読み直しハイデッガーのほかの書物や講義録を読んでいくうえで独仏、英米のハイデッガー論と共に実に興味深い主題と考えているので、ここにあえて一つの材料として提出する次第である。その中の一つとして、とりあえずリオタールの「ハイデガーとユダヤ人」を挙げておきたい。リオタールが日本語版の序文で日本の高山岩男、高坂正顕ら近代の超克の論客たちや竹内好も視野に治めて日本という国の戦前を論じているのが興味深い。

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