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2005年6月19日 (日)

美は一日にしてならず

   NHKで「オペレッタ狸御殿」のメイキングも織り込まれている「女優チャン・ツイィー美は一日にしてならず」を見た。CGを駆使したこの時代の映画制作の現場の奇妙さと面白さも垣間見れたのはさいわいだった。また番組の中ではチャン・ツイィー主演の以前の作品をチャン・イーモウとスタッフ達が外国の映画祭や中国国内での仰々しいイベントに出席し宣伝する様子も撮影されている。それは現在の映画興行システムに、あの「初恋のきた道」や「菊豆」、「活きる」の秀作を撮った監督と女優が無残に組み込まれ、振り回され疲弊しているように私には見えた。ツイィーの気丈さ、健気さを映像は語っているつもりなのだろうが私には痛々しかった。チャン・ツイィーという女優がかつてのジュディ・ガーランドの二の舞にならないことを祈るのみである。しかし我らが清順翁はご壮健であらせられる。現在も翁の活力と好奇心が旺盛なることを拝見できたのは良かった。

私にとって女優チャン・ツイィーとは何といっても「初恋のきた道」である。あの作品を見たとき私は日本映画がかつては有していた抒情と人と自然の穏やかさとでも言うしかない映像と物語をそこに再発見した思いだった。中国映画の力量は、その前にチェン・カイコーの「黄色い大地」を観た時に予感はした。一方、日本映画の世界での評価の高さは劇映画ではなく宮崎 駿以来、アニメである。私はアニメが映像の最先端と思わないが、日本や欧米の関心がそこに多く集中しているのは見聞きするところだ。「美は一日にしてならず」という、この番組のタイトルはツイィーの言葉から取られたものらしい。しかし皮肉に取れば彼女の言は「美は瞬時にしか生まれぬ」と裏を返すことも出来る。恐らく美と、それから死は裏腹の関係を持つのではないかという仮説を立ててみよう。

その連想は、美に固執したと一般に評される三島由紀夫のハラキリと彼の死生観とも関連してくる。かつてアンドレ・マルローは昭和初年の初来日時の新聞のインタビューでハラキリは「死することの否定(取意)」と述べたそうだ。それは日本への関心の幾つかのひとつであったという「切腹」の急所を突いた考えではないか。そのマルローの慧眼は彼の死生観に発するものと推察されるが「東は東、西は西」ではなく彼の美術への関心を通して東西の共通の関心事ともいえるだろう人の死という事態が彼の人生を通してフランスと日本の間で交流されたと私には思える。三島の自裁は「日本」という、果たして固定的に存在してきたかどうか判然としない「国家」(クニ)に対する幻想、妄想、憧憬と禍根への三島流の論理的帳尻合わせ、と私には思える。人の様々な死のうち、三島の死は私にとって人という存在の不気味さというハイデッガーの思索を思い起こさせる痛烈な例のひとつでもある。

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