« 田中一村について | トップページ | 「戦争の罪を問う」(続き) »

2005年6月 1日 (水)

歴史的仮名遣い

桶谷秀明氏の「昭和精神史 戦後篇」を読んで先ず考えるのは、日本という国家と日本語という国語の実情が、どのような帰趨を経て現在に至っているのか、という思いである。歴史的仮名遣いで綴られる文章の張りは読む者の襟を正させる。そこには桶谷秀明という人間存在が彷彿としている感がする。そこから私は文体という意味を改めて連想する。いずれの国にも国語があり、それは歴史の中で改善、改悪という紆余曲折を経て現在あるものであり、そこで意思疎通が出来ないとするなら、その経過の屈折の仕方は不幸というしかない。

私には現在の国語の不幸は私という存在の不幸と無関係とは考えない。大和言葉の雅は、この2005年の現代日本人が日本語で会話する多くの日本人が失いかけ、一部にはもちろん、復古的な動きはあるだろうが、「国家」の遺産だろう。それはまた、人間という存在にとっての言葉・言語の持つ意味という問題と密接な関係にある。ハイデッガーなら、人間にとって言語は、その存在と存在的に、あるいは存在論的に不可分に関わってくる性質を持つ、というだろう。彼は、存在にとって言葉(言語)は家である、と指摘しているからだ。

言語が、国家に属する人々の生活にとって不可欠の「道具」として必要なものであるなら、それは出来るだけ真っ当な形で継承されていったほうが良いと私は考える。

この国の古代は言霊の咲きわう国であったはずだ。言霊と言う単語が、他の国にもあるのか私は詳らかにしないが、それは言葉、言語の持つ重要な意味を言い当てている。

同様に「文章の力」と言って良い力が確かに存在する。それは決して美文というものではない。

山本夏彦の言い方を借用すれば祖国とは国語である。「戦後民主主義の虚妄」論議も煎じ詰めれば「国語」とは何かという一つの論点を立てる事が可能だ。

当用漢字と常用漢字の区別も「国家」の統制に関わる結果でしかない。ここに首肯できない人々がいるのを「国家」(日本政府)から果たして視えているのかどうか、が、この国の将来を左右する方向の一つと私は考える。

私は、熟考すべき問題は、日本語というより、現在の「国語教育」のあり方にあると思う。そこで突飛に思われるかもしれないが、現在の大学受験科目での国語の価値を英語より重くすることを提案する。高校の正課では歴史的仮名遣いを、受験でもそれに準拠した問題を数問出す。もちろん唐詩選を楽しめるくらいの漢文の出題も同等に。なぜなら、それは現在の英語教育とも絡んでくる事だからだ。だからと言って私は英語を第一番に置くわけではない。外国語を実学として学ぶ必要を薦めているわけでもない。しかし多くの学生が大学を出ても使い物にならない現在の英語偏重の教育現場は「国語教育」を根本的に見直すことで改善の余地があると私は思う。山本夏彦の言は明察と言うしかない。

  「国語」を深く考えるということは、別の論点になるが憲法改正論議とも無関係ではありえない。私は中学、高校での国語教育の重視こそが根本的に現在の我が国の迷走と混乱を解決する一つの糸口になると考える者である。しかし、そういう論議や思考がサヨクからウヨク的言辞と解されるような早とちりは勘弁願いたい。

国語は、現在に生きる私たちが話す日本語と密接に関連して、国の文化と切っても切れない関係を持つ。改めて言うまでもなく、歴史的な経過を経て現在がある。その現在に生きる私たちがより良く国語で現在の生活を楽しむためには、我々の国語の特質を教師が明確に教えなければならない。そこがあくまで理解されなければ、すべて国語は不幸でしかない。

最新の「小林秀雄全集」は歴史的仮名遣いと新字体の2種類出ている。著者の書いた文章は歴史的仮名遣いであり、普及版は新仮名遣いに修整されている。しかし當用、常用漢字の制約から自由に、著者が使用している漢字の使い方にも込められる思考の動きが、より正確に辿れるのは前者の方であろう。新潮社の全集は前者が1巻8千円とベラボウに高い。これでは中学生、高校生には手が届かない、私にも届かない(笑)。私は図書館で借りて読む。もっとも、どの中学・高校・大学、公立の各図書館にもおいてあるかどうか知ないが。

とはいえ私を含めて、若い人たちが歴史的仮名遣いや、小林氏の使う漢語に無知であれば、せっかくの貴重な文献を自らのものとして読み取ることはできないのだ。祖国とは国語である、という先の山本夏彦の言に倣えば、文化とは生きている国民の言葉であり生活であり、ひいては国語である、という視点は重要であろう。読書とは、著者の呼吸と思考の動きを文章から読み取ることではないのか。単なる知識の集積ではなく、「心読」(この言葉は今や死語だろうが)の必要を私は訴えたい。国の乱れは国語の乱れ、とすれば、喫緊なのは正に国語を学ぶ時間の不足を妥当なものに戻すことではないのか。行政は、その怠慢を心底反省し改善に努めるべきだ。それは怠慢を通り越して後の人々に対して罪悪ではないか、とさえ私は危惧する者である。 

|

« 田中一村について | トップページ | 「戦争の罪を問う」(続き) »

コメント

歴史的仮名遣いについての実感は、私が言葉を読み、書き始めた頃からすでに現代仮名遣いであったわけなので、日常の中での実体感がない。またいま国語を教えている立場としても、歴史的仮名遣いのよさや微妙なニュアンスをいまの子供たちに伝えることを思うだけで溜息が出る。現実の言葉はいま現在も変化しつづけている。言葉は時代の風俗習慣と切り離しては考えられない。遺産は遺産であり、その伝統にふれることによって自らの言語感覚を磨くのは個人の感性に任せる他はないのでないか。つづく⇒

投稿: スタボロ | 2005年6月 3日 (金) 午前 12時57分

確かに小林秀雄や石川淳、丸谷才一などを読んでいると伝統は感じるが、それをまねしたいとも思わないし、いまは今を表現する言葉があるはずである。まして歴史的仮名遣いへ復古する必然などはすこしも感じない。日本語の美しさを遺産の中にしか見い出だせないなら、いまを生きる言語感覚を磨く必要がある。言葉に言霊があるなら、現在の言葉にもそれは生きているはずである。少なくとも私は新訳ドストエフスキー全集を読むのに、歴史的仮名遣いなどは全然必要性を感じなかった。文学の本質にかかわらないことは明らかである。いかがであろうか。

投稿: スタボロ | 2005年6月 3日 (金) 午前 01時19分

>歴史的仮名遣いについての実感は、私が言葉を読み、書き始めた頃からすでに現代仮名遣いであったわけなので、日常の中での実体感がない。
 ■日常の中での実体感がないことは、それを必要としないということにはならないのが国語という言語がもつ性格なのではないでしょうか。それは外国語でもそうですが、日常的に使用する言葉と違う「世界」があることは日常生活から理解することは難しいことです。だから、そこには国家の教育と国家の役割が深く関わってくるというのです。復古という言葉の価値は宣長の主張とは逆転しているわけですが、ここに価値を見出す意志に注目することが重要であると私は思います。それは国家のシステムと、その中で「生活」する国民の実存とも関わってくる問題です。しかし、こういう考えが時代遅れの「復古主義者」の戯言と「民主的」な姿勢とは相反するものと片付けられる愚は避けねばならないことはご理解いただけるでしょうか。
>歴史的仮名遣いのよさや微妙なニュアンスをいまの子供たちに伝えることを思うだけで溜息が出る。
 ■それはスタロボさんのポーズでしょう。国語を教える側に理解があり、面白さを伝えようという意思があれば子供がそれを無視するとは私には思えません。少なくとも受験体制とは別にそれを教える側が情熱を持って(笑)伝えることが条件ですが。
>現実の言葉はいま現在も変化しつづけている。言葉は時代の風俗習慣と切り離しては考えられない。遺産は遺産であり、その伝統にふれることによって自らの言語感覚を磨くのは個人の感性に任せるほかはないのではないか。
 ■それはあまりにも分かりやすく、厳しく言えば「現実」に、あるいは選挙民達に媚びた政治家たちのあざとさと共通する鈍感さではありませんか(笑)。失礼。古語から現代語へと変化はあっても、国語という「体系」を通してしか伝わらない「物」があるように思われます。それは「幽玄」であり「もののあわれ」です。それを表現するのが「国語」という仕組みであり、それこそが、先にお述べになっておられた国語のもつ「実体感」なのではないでしょうか?「教育」は、伝統にふれる機会を与え、意志を育てる場なのではありませんか。ため息をついている場合ではありません(笑)。個人の感性とは別に最低限の知識を、生き生きと教える義務が教える側には課せられている筈です。
 取り合えず、ご返信いたします。とりとめのない考えでご容赦ください。続きは後日、改めて。

投稿: アカショウビン | 2005年6月 3日 (金) 午前 06時26分

まず戦後に、歴史的仮名遣いを切り捨ててさらに言文一致へ近づけようとした、国語審議会の愚挙があった。この時の侃々諤々は福田恒存その他の著書に詳しい。もしこの改革をさらに国家=審議会にゆだねるならさらに愚を重ねるおそれあり。この間の教育課程の朝令暮改でも明らかである。☆歴史的仮名遣いは高校の古典の中に生き残っている。国語の伝統に触れる機会は、内容はともかくとしてそこに残っている。☆歴史的仮名遣いをいまの小中学生に教える困難さはポーズなどではない。漢字を覚えるのさえ手いっぱいな子供になにをかいわんやである。

投稿: スタボロ | 2005年6月 3日 (金) 午前 11時47分

そもそも私は歴史的仮名遣いを子供たちにいきいきと教えようなどという意欲も素養も持ち合わせていない。それが国語教育の義務だなどという大上段に振りかざした言い方は、現場をしらぬ空言にしか聞こえぬ。幽玄やもののあわれは言語教育だけではつかめぬ、個人の精神的成長や人生体験、はたまた文学的素養のうちに熟成されてくるものであろう。実用言語と言葉そのものを創作対象とする書き言葉との区別もきちんとつけねばならぬ。現実感覚から乖離した物言いは、ディレタンティズムの一保守主義の繰り言にしか聞こえない。

投稿: ハンス | 2005年6月 3日 (金) 午後 02時42分

疑問を呈すれば、筆者は歴史的仮名遣いを正しく理解し表記できるのだろうか。私は勿論できない。おそろく戦前世代でも正しく表記できる人はわずかだろう。現代仮名遣いの普及と歴史的仮名遣いの忘却にもっとも力を発揮したのは、新聞である。まことに壊すは易く創造は難いのである。歴史的仮名遣いの正当さをいま蒸し返しても、ますます少数派にならざるをえないし改革当時より理解されないだろう。よいと思う人が自らの考えと意志で表記を選び取ればよいのである。《おもう》を《おもふ》と書くことによって何か違うものを感じるならそうすればよい。

投稿: スタボロ | 2005年6月 4日 (土) 午後 08時02分

>確かに小林秀雄や石川淳、丸谷才一などを読んでいると伝統は感じるが、それをまねしたいとも思わないし、いまは今を表現する言葉があるはずである。まして歴史的仮名遣いへ復古する必然などはすこしも感じない。日本語の美しさを遺産の中にしか見い出だせないなら、いまを生きる言語感覚を磨く必要がある。

■それを真似するのではなく理解できる教育をすべきである、と言うのです。復古する必然を私は言っているのはなく、それは今の日本語を考えるうえで必要ではないかと言うのです。また、それは「今を生きる言語感覚を磨く」うえでも有益だとはお考えになりませんか?「現場」を知らなくても、それは教える立場にある人々に私たちが国民として、市民として求めてもよい事柄なのではないでしょうか。もちろん私の友人の高校教師のナマの声で同様な、現場を知らない輩がいい加減な事を言うな、と言った論調で憮然とされた事がありました。

>言葉に言霊があるなら、現在の言葉にもそれは生きているはずである。少なくとも私は新訳ドストエフスキー全集を読むのに、歴史的仮名遣いなどは全然必要性を感じなかった。文学の本質にかかわらないことは明らかである。

■言葉にではなく日本語には、です。それは世界の言語の中でも日本語にだけ見られる言語観なのか、それとも世界にはいくらでも例があるのか私は詳らかにしません。しかし、そこに保田與重郎も小林秀雄も依拠した過程はやさしく辿れる事実でしょう。ドストエフスキーを読むのに歴史的仮名遣いの必要を感じない。文学の本質にはかかわらない、と述べられている事には私の言を曲解しておられるようですから説明しましょう。
新訳がロシア語の原語をどれだけ忠実に翻訳しているかどうかは、それぞれの訳を比較しなければ安易に言うことはできないことです。新訳でドストエフスキーの真意が理解できたとスタボロさんがお考えなのでしたら、その自信には敬服しますが、それが「文学の本質にかかわらない」と私は思いません。少なくとも翻訳に常に付き纏う翻訳不可能な語彙に関しては原語にあたる必要があるでしょう。歴史的仮名遣いを通して理解できる概念と戦後に断絶した日本語が失ったものは、文学の本質の一つ、あえて一つと言っておきます。本質にいくつかあるのか、という議論は別のテーマになるわけですが、そのように考えると翻訳という作業の難しさを意識することは避けられません。それは文学の本質にかかわらないこと、と私には思えません。大岡昇平氏が晩年にロシア語を勉強されてドストエフスキーを読み直したというエピソードはご存知と思いますが、その努力には敬服するものです。それは氏が文学の本質にかかわることだ、と考えたからではないのでしょうか。だからといって原語で読まなければ外国語の小説や哲学書がまるで理解できないと言っているのではないことはご理解いただけるでしょう。

>歴史的仮名遣いについての実感は、私が言葉を読み、書き始めた頃からすでに現代仮名遣いであったわけなので、日常の中での実体感がない。

■だからといって、現代仮名遣いだけで戦後の日本語が変化して失ったものは国語にとって大きな損失ではないかと私は考えるのです。

>まず戦後に、歴史的仮名遣いを切り捨ててさらに言文一致へ近づけようとした、国語審議会の愚挙があった。この時の侃々諤々は福田恒存その他の著書に詳しい。もしこの改革をさらに国家=審議会にゆだねるならさらに愚を重ねるおそれあり。この間の教育課程の朝令暮改でも明らかである。

■それは同感です

>歴史的仮名遣いは高校の古典の中に生き残っている。国語の伝統に触れる機会は、内容はともかくとしてそこに残っている。
>そもそも私は歴史的仮名遣いを子供たちにいきいきと教えようなどという意欲も素養も持ち合わせていない。それが国語教育の義務だなどという大上段に振りかざした言い方は、現場をしらぬ空言にしか聞こえぬ。
■そこで、それを学ぶ時間を中学、高校で、ひいては受験科目の中で英語と比べて、もっとウエイトを持たせバランスを取れ、と言うのです。日本人の英語習得の下手さは日本人の言語理解能力によるものか、それとも他にあるのか私には不明ですが、漢文を理解するのに抜群の、もちろん長い歴史的時間をかけてですが、抜群の能力を発揮した日本人が言語習得に根本的に劣っているとは私には思えません。このようなことになったのは戦争に負け、漢文から英語に鞍替えした当時の文部省の愚策に起因するという仮説に私は共感するものです。であれば、漢文も国語と同等に、というのが現場を知らぬ私の岡目八目です。そのように説明すれば「国語教育の義務」という私の言が決して大上段に振りかざしたエラそうな言でないのはご理解いただけるでしょうか? またポーズではないか、という私の言は軽いからかいだったのですが、マジなリアクションには反省しております。

>幽玄やもののあわれは言語教育だけではつかめぬ、個人の精神的成長や人生体験、はたまた文学的素養のうちに熟成されてくるものであろう。実用言語と言葉そのものを創作対象とする書き言葉との区別もきちんとつけねばならぬ。現実感覚から乖離した物言いは、ディレタンティズムの一保守主義の繰り言にしか聞こえない。
■私は桶谷秀明氏や小林秀雄や保田與重郎を読みながらそれを痛感したことから述べているわけで、現実感覚から乖離して述べているわけではないのです。現実感覚ではなく日本語の現在という事実から述べていることはご理解いただけますか?彼らの著作を読んでいると自ずと知らず私の論調が「ディレタンティズムの一保守主義の繰り言」に聞こえるかもしれませんが、実はそうではない、と声を大にして叫んで(笑)もわかってもらえないのかな、と思い悩んでしまいますね。

>疑問を呈すれば、筆者は歴史的仮名遣いを正しく理解し表記できるのだろうか。私は勿論できない。おそろく戦前世代でも正しく表記できる人はわずかだろう。

■私も自信をもって出来ない(笑)。しかしそれを理解できるようなカリキュラムにするのは国家の責務だろう、と言うのです。しかし、これは「新しい歴史教科書を作る会」の論説と混同されては困ります。その異同は後に論じることにしましょう。

>現代仮名遣いの普及と歴史的仮名遣いの忘却にもっとも力を発揮したのは、新聞である。まことに壊すは易く創造は難いのである。歴史的仮名遣いの正当さをいま蒸し返しても、ますます少数派にならざるをえないし改革当時より理解されないだろう。よいと思う人が自らの考えと意志で表記を選び取ればよいのである。《おもう》を《おもふ》と書くことによって何か違うものを感じるならそうすればよい。

■それは同感なのですが、歴史的仮名遣いを学ぶことを通じて漢語の概念がどのように和語に置き換えられていったかという過程を学びながら古事記、万葉を読み説く面白さは私も楽しみたいし、若い人達にも伝えたいのですがねぇ。そんなのあんたの勝手でしょ、と言われれば、それまでですが(笑)。

投稿: アカショウビン | 2005年6月 5日 (日) 午後 05時54分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/111335/4363355

この記事へのトラックバック一覧です: 歴史的仮名遣い:

« 田中一村について | トップページ | 「戦争の罪を問う」(続き) »