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2005年6月16日 (木)

さとうきび畑

 「昔、海の向こうから戦がやってきて、あの日、鉄の雨に打たれ父は死んでいった」と「さとうきび畑」という作品で森山良子が歌っている。さらに「夏の日差しの中で 私の生まれた日に 戦の終わりはきた」と歌詞は続く。それは、時の移り変わりの不可思議さに歌詞の私はぼんやりと思い至っている、という印象だ。

 「知らない父の手に抱かれた夢を見た」という一行は心を撃つ。この作品の歌詞の中の「私」は亡き父を求めているわけだが、父は、あの激しい戦闘の中で殺され、この世には存在していない。「私」の記憶と想像の中の父親が森山良子の声を通して聴こえてくるだけだ。「私」が見る景色と感情の中で「夏の日差しの中で」、それは或る「意味」を生じ「私」は現実には存在しない父を「想い起こす」のだ。

 人という存在の不気味さを私達は忘れてなるまい。その事に気づくのはある極限状況でもある。「さとうきび畑」の舞台である沖縄の、1945年4月、米軍の艦砲射撃による地獄絵図の島に向け「大日本帝国」の戦艦大和は特攻をかけ数百機(千機とも)の米軍機の波状攻撃を受け、そこでもまた沖縄の大地同様の地獄絵図が繰り広げられた。私達は、この史上最大の戦艦の激闘と最期を吉田満氏の稀有の文章で読むことが出来る。「さとうきび畑」を聴きながら私はその沖縄に辿りつこうとして殲滅させられた大和に象徴させられる日本という国家(クニ)の歴史にも思い至さざるをえない。「さとうきび畑」の感傷と大和の激戦と乗組員達を描いた吉田満氏が生きのびた戦後の論考を併せ読むと、日本という国家(クニ)の悲壮と壮烈と愚劣が私の思考の中で乱雑に混在する。それはほとんどが不協和音だが。しかし時に精妙なハーモニーとなって呼応するのである。

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