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2005年6月27日 (月)

保田與重郎の「近代」(補足)

先の文章では説明不足だと苦言が呈されたので補足する。保田が考える「近代」とは「述史新論」(10頁・新学社「保田與重郎文庫32」)で次のように説かれている。これは昭和36年頃に執筆された未発表の遺作で昭和59年秋に新潮社から発刊されている。原本は歴史的仮名遣いで傍点も付いているが今の我々を含め若い人たちにも理解しやすいように現代仮名遣いに変えた。

「近代とは欧州が有色人種地域を植民地として支配した時代である。強力な兵器が、その支配の原理となると共に、西洋のもった欲望と、アジアの生活より生まれる道徳とが、ぜんぜん別個の原理のものだったことにも、その侵略支配を容易ならしめた因があった。19世紀においてアジアの国が、独立をめざすということは、専ら自衛の目的のために西洋の制度を移入することであった。これがアジアに於ける近代化の実相である。アジアの生活を基盤として、その上に西洋の制度を移入し、自衛としての富国強兵の実を挙げるということは、誰にも容易にきづかれる矛盾をふくむものである」。 

偏愛した和泉式部を論じた「和泉式部私抄」で彼は次のように述べている。 

  「精神と肉体とかりに呼ばれるやうなものの統一の原理といへば、ただこともなく身をまかせているばかりである。さうして千五百に余る歌と一箇の小説の中で、女の恋ごころを情事の中でうたつてゐる」 

精神と肉体と「かりに」呼ばれるやうなもの、というあたりに保田與重郎という文人の思想の核が垣間見えるように思う。保田はドイツ・ロマン主義に感化されたが、彼がそれを応用し自分の思考の基礎としたものは王朝文化という、ある意味で、この文章が起草された昭和11年から発刊の昭和17年当時の時代の空気の意表を突いたものだった。カーキ色に染まった国の芸文の中で女々しさをグイと突き出す悪趣味ともとれるもの、とそれは言えるだろうが保田與重郎の真骨頂はそのあたりにあるのだろうと私は思う。

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2005年6月23日 (木)

もののあはれ

 或るHPの掲示板で中国人女性の留学生から源氏を勉強しているが「もののあはれ」というのがわからないので教えて、という書き込みがあった。それに答えようとすると、これが難しい。自分の無知・無学にも気づく。ここにあえて、私の回答の一部を恥を忍んで書いておこう。

 「もの」というのは、多分生きている人間を含めて、この世に存在しているすべて、哲学でいえば「存在者」ということだと思います。人間が生きて苦しんだり喜んだり、悲しんだり、また桜の花が咲いたり散ったりするのを見ることは「あはれ」なことですね、というように少し説明を加えて言うこともできると思います。

 難しいのは「あはれ」という言葉です。今の日本語で使う「あはれ」とは少し違います。漢字では「哀れ」、「憐れ」と表記されるのですが「大和(やまと)言葉」(日本の古い言葉を、こう呼びます)の「あはれ」は人生の苦しさや辛さに、深いため息をつくように交わされた言葉と私は理解しています。漢字で書くと「諦観」に近い意味でしょうか。

 国文学の専門家でなくとも基本的なところで見当違いもあるだろうから遠慮なくご指摘いただきたい。しかし、この王朝時代の雰囲気を象徴する、この概念を更に思考することは興味深いのでアカショウビンもさらに考究するつもりであります。

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2005年6月19日 (日)

美は一日にしてならず

   NHKで「オペレッタ狸御殿」のメイキングも織り込まれている「女優チャン・ツイィー美は一日にしてならず」を見た。CGを駆使したこの時代の映画制作の現場の奇妙さと面白さも垣間見れたのはさいわいだった。また番組の中ではチャン・ツイィー主演の以前の作品をチャン・イーモウとスタッフ達が外国の映画祭や中国国内での仰々しいイベントに出席し宣伝する様子も撮影されている。それは現在の映画興行システムに、あの「初恋のきた道」や「菊豆」、「活きる」の秀作を撮った監督と女優が無残に組み込まれ、振り回され疲弊しているように私には見えた。ツイィーの気丈さ、健気さを映像は語っているつもりなのだろうが私には痛々しかった。チャン・ツイィーという女優がかつてのジュディ・ガーランドの二の舞にならないことを祈るのみである。しかし我らが清順翁はご壮健であらせられる。現在も翁の活力と好奇心が旺盛なることを拝見できたのは良かった。

私にとって女優チャン・ツイィーとは何といっても「初恋のきた道」である。あの作品を見たとき私は日本映画がかつては有していた抒情と人と自然の穏やかさとでも言うしかない映像と物語をそこに再発見した思いだった。中国映画の力量は、その前にチェン・カイコーの「黄色い大地」を観た時に予感はした。一方、日本映画の世界での評価の高さは劇映画ではなく宮崎 駿以来、アニメである。私はアニメが映像の最先端と思わないが、日本や欧米の関心がそこに多く集中しているのは見聞きするところだ。「美は一日にしてならず」という、この番組のタイトルはツイィーの言葉から取られたものらしい。しかし皮肉に取れば彼女の言は「美は瞬時にしか生まれぬ」と裏を返すことも出来る。恐らく美と、それから死は裏腹の関係を持つのではないかという仮説を立ててみよう。

その連想は、美に固執したと一般に評される三島由紀夫のハラキリと彼の死生観とも関連してくる。かつてアンドレ・マルローは昭和初年の初来日時の新聞のインタビューでハラキリは「死することの否定(取意)」と述べたそうだ。それは日本への関心の幾つかのひとつであったという「切腹」の急所を突いた考えではないか。そのマルローの慧眼は彼の死生観に発するものと推察されるが「東は東、西は西」ではなく彼の美術への関心を通して東西の共通の関心事ともいえるだろう人の死という事態が彼の人生を通してフランスと日本の間で交流されたと私には思える。三島の自裁は「日本」という、果たして固定的に存在してきたかどうか判然としない「国家」(クニ)に対する幻想、妄想、憧憬と禍根への三島流の論理的帳尻合わせ、と私には思える。人の様々な死のうち、三島の死は私にとって人という存在の不気味さというハイデッガーの思索を思い起こさせる痛烈な例のひとつでもある。

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2005年6月18日 (土)

保田與重郎の「近代」

 保田與重郎が戦前にどのような思想背景を持った文人としてものを書いていたかについて「和泉式部私抄」から抜粋する。抜粋部分は「 」で示す。地の文は保田與重郎の言わんとしていることを明確にするため私の文章にした。

 昭和の初年頃の東京では歌を作る若い女たちの集まりで、百人一首の「わすらる身をば思わず誓ひてし人のいのちの惜しくもあるかな」が話題になり、その時に彼女たちは皆、この歌の「人のいのち」が、捨てられた女自身のことを指すと語ったらしい。そこで保田は言う。この「人」は相手の男のことであり捨てられる己はともあれ、己を捨てる人が、その時の誓を破ることによってうける罪の罰をかなしむのである。歌の中へ出る人という言葉を殆ど恋人と解するのは古い歌をよむ上での約束である、と。

 「しかしそれはともかくとして、この人のいのちと云ふ人を、己と解したと云ふ近頃の化は、人間の考へ方のおそろしい化である。さうしてこの人を、己とよまねばならぬと云ふことは少しも美しくない悲しい近代の性格である。このやうな心的状態からはもう歌のやうな歌は生れ出ないのである。しかもこの人が、己であつてはならない。戀人でなければならないと云ふことはさういふ人々に教へる方法がなくなつた。ましてこれを、戀人としてよまなければ、少しも楽しくない、おもしろくない、と云ふことは一層ときあかすことが出来ないのである。このことは和泉式部の歌を味ふ上でも重要なことだと思ふ。この歌の「ひと」と云ふことばを、「戀人」とまねば、この歌が少しもおもしろくないではないか、かういふことが納得できぬ人には、和泉式部の歌のおもしろさも大半通じないと思ふ。」(同書p48)

 私達の父祖が日本国民として先の大戦を戦った「正義」として掲げた西洋の侵略からアジアを守るという主旨は大日本帝国のイデオローグとして抹殺された保田與重郎という文人の中で、彼が思い描く米作りの文化圏としてのアジアという思想の背景にこのような認識を明確に持っていたことは黙視してはならないだろう。

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2005年6月16日 (木)

羽生勝つ!

 いやぁ、今年の名人戦は面白くなりました!羽生がよく踏ん張った。しかも相矢倉の「将棋の純文学」(米長邦雄)で。7番勝負の最終局は23日、24日、静岡県の河津町の「今井荘」。しかも2日目は金曜日。それなら仕事は早々に切り上げ缶ビール買い込み新宿の大盤解説に一目散だ! 天よ、その日は何とぞ新宿上空の空を晴れわたらせたまえ!

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さとうきび畑

 「昔、海の向こうから戦がやってきて、あの日、鉄の雨に打たれ父は死んでいった」と「さとうきび畑」という作品で森山良子が歌っている。さらに「夏の日差しの中で 私の生まれた日に 戦の終わりはきた」と歌詞は続く。それは、時の移り変わりの不可思議さに歌詞の私はぼんやりと思い至っている、という印象だ。

 「知らない父の手に抱かれた夢を見た」という一行は心を撃つ。この作品の歌詞の中の「私」は亡き父を求めているわけだが、父は、あの激しい戦闘の中で殺され、この世には存在していない。「私」の記憶と想像の中の父親が森山良子の声を通して聴こえてくるだけだ。「私」が見る景色と感情の中で「夏の日差しの中で」、それは或る「意味」を生じ「私」は現実には存在しない父を「想い起こす」のだ。

 人という存在の不気味さを私達は忘れてなるまい。その事に気づくのはある極限状況でもある。「さとうきび畑」の舞台である沖縄の、1945年4月、米軍の艦砲射撃による地獄絵図の島に向け「大日本帝国」の戦艦大和は特攻をかけ数百機(千機とも)の米軍機の波状攻撃を受け、そこでもまた沖縄の大地同様の地獄絵図が繰り広げられた。私達は、この史上最大の戦艦の激闘と最期を吉田満氏の稀有の文章で読むことが出来る。「さとうきび畑」を聴きながら私はその沖縄に辿りつこうとして殲滅させられた大和に象徴させられる日本という国家(クニ)の歴史にも思い至さざるをえない。「さとうきび畑」の感傷と大和の激戦と乗組員達を描いた吉田満氏が生きのびた戦後の論考を併せ読むと、日本という国家(クニ)の悲壮と壮烈と愚劣が私の思考の中で乱雑に混在する。それはほとんどが不協和音だが。しかし時に精妙なハーモニーとなって呼応するのである。

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2005年6月15日 (水)

小津安二郎の「秋刀魚の味」

 小津の遺作となった「秋刀魚の味」(1962)で泥酔した恩師の東野英治郎を今では教職を退き生業としているラーメン屋に笠 智衆と中村伸郎の二人の教え子が送り届けるシーンがある。昨夜レンタルビデオでそれを視た。それは何度みても惹き込まれ魅入らせられるシーンだ。東野は行かず後家の娘(杉村春子)と暮らしている。そこへ成長し社会的な地位も得た教え子達が酔っ払いの父親を娘に送り届けるわけだ。見ようによっては陳腐な設定ともいえる。しかしそこに東野と杉村という名優を得て小津は陳腐から多くの観客が探り当てるだろう人生の哀れと虚無というしかないシーンを観客に突きつけるのだ。スクリーンを見た観客の多くがそれを感受し戸惑い反発しあるいは共感しただろう。東野の酔漢ぶりは映画史に残る演技と私は確信するが何度見てもそれは面白くまた感嘆し頭が下がる。同様に小津にも。

  さてまたここで果たして小津は東野という好人物の飄逸が人間の哀れに転じるといった単純な変化を描こうとしているだけなのだろうか?そうだとしても東野はそれに稀有な演技で応えた。それは佐藤忠男氏が言う「残酷味」(「小津安二郎 新発見」(講談社α文庫20021220日第1刷)だが、残酷というより虚無と称すべきものと私には思われるのだ。小津の虚無とでもいうしかない不可解なものがそこにはある、と。そんなものとはおそらく無縁の厚田雄春のキャメラは小津の虚無を東野に転移させたかと見紛う結果をプリントに残してくれた。そのシーンを私は何度見ても笑い愕然とし怖気を震わせられる。

 教師と教え子の対照は非情である。教え子達が招待した酒席で師はしたたか酔いかつての教え子達に問わず語りにこう話すのである。「私は失敗しました。娘をいいように使いすぎました(取意)」。そう語る、かつては教師でまた一人娘の父親・東野の嘆きは「教師からラーメン屋に職を変え生計を立て女房を亡くし娘を嫁に出しそびれた私の人生は失敗でした」とも取れる。この作品をスクリーンで見つめる上映当時の観客にはそれがそれぞれに深く共感されたことだろう。正しく虚無は幸せそうな物語のそここに巧妙に刷り込まれている。斎藤高順(たかのぶ)氏の音楽も小津の呼吸を音にして絶妙というしかない。しかし今の若い人たちがあの作品を見てどれほどの共感を持つだろうか?

 

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2005年6月11日 (土)

オペレッタ狸御殿

 清順映画の集大成か、はたまた、これも一里塚か。奇想天外の迷作は世界をも驚かす。映画はかくあるべし、という清順の意気や良し。正に日本映画のフェリーニ、パゾリーニたらんか。日本映画の到達点は、これでも良し、と唸らせる奇想と仕上がり。黒澤、小津の名匠に割って出でたる清順翁、我が邦にも歌物語ありを造り出したり。先ずはめでたし。翁の長寿を祷り次作を期待するなり。

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2005年6月10日 (金)

追悼 塚本邦雄

  塚本邦雄が亡くなった。短歌には殆ど親しむ事のなかった私だが、学生の頃に氏の幾つかの著書を読み、それ以後は新聞に載る散文や短歌に時々出合い、はっと立ち止まるくらいの、実にいいかげんな読者だった。それは恰も、間欠泉に見とれ、オォッと感嘆し畏敬し、奇景に驚くが、それが終わると他の場所へ移動し、そのころにはあの姿と驚きをすっかり忘れている、といった観光客のようなものだった。

切って棄てたる愛國心の残臭と黴雨あけ塵芥函(ごみばこ)の濃紫陽花(こあじさい)

この破調の歌は何年か前、たぶん新聞に掲載されたものをメモしておいたものだ。久しぶりに氏の歌に出合い、愛国心、という氏が生きた若い頃の時代の空気が伝わるような、それに塵芥箱に捨てられた濃紫陽花という対比が痛烈で、作者の激情と歌の象徴に脳天を撃たれた気がした。

氏はシャンソンなど音楽にも造詣が深く、今では古典音楽のように演奏される機会も多くなったオルフのカルミナブラーナなどは氏の著書で教えてもらった作品だ。定家への愛着と造詣も私にとっては遥かに見る高峰のような偉大な知性だった。

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2005年6月 9日 (木)

監督鈴木清順

   毎日新聞・タ刊に鈴木清順監督がカンヌに出品した「狸御殿」の話を中心にインタビューされている。氏は、カンヌの観客は大笑いで、うれしかった、と答えている。上映権獲得のオファーは3O以上もあったそうだ。先ずはめでたいことだと思う。以下インタビューの抜粋。

 「私は記憶力が弱くてね(笑い)。映画を観ていても筋がわからない。監督がわからない。ひたすら俳優さんの動きばかり見ている。そもそも自分が映画人だから趣味として映画が見られない。だから全然楽しくないんだね」。

鈴木清順という、私の感覚からすれば破格でとらえどころのない監督らしくてかえって気持ちのよい言葉だ。

「『歌ふ狸御殿』(木村恵吾監督、昭和17年)を見たのは、大学受験の浪人中。純粋に楽しめたんだね。 映画というのはそもそも青春、若者のものでしょう。大学に合格してもすぐ兵隊になる、そんな時代に浪人生同士つるんで映画を見たり風呂屋めぐりをしたり

うーん、そうか。映画というのは青春、若者のものなのか!やっぱり(笑)。すると私のようにレンタルビデオだけではもの足りず、ここ何年かは学生の頃以来、また映画館に足を運ぶようになった者などは、清順説によると、さながら未だに大人に成れない未熟オヤジというところか。もっとも映画館といっても、あの頃の小汚い(失礼!)名画座通いとは違い、評判になったものだけを広くて清潔なロードショー館に足を運ぶだけだが。

私もファンの、映画フリークでコラムニストの中野翠(さん)なら何というだろう。

「『歌ふ狸御殿』には大好きな宮城千賀子さんが出ていた。白黒だったけど、まさに豪華けんらん。戦時中によくあんなものができたと不思議です。心の底から楽しめる娯楽ってとても大事だと思う。今はそう、何かしらものを言っている映画が多いですね」。

さすが清順。「何かしらものを言っている映画が多い」と、さらりと言うあたりに破格の眼力を感じる。

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2005年6月 6日 (月)

深作欣二と鈴木清順

フランスでは「バルザック全集をひもとくのと同じ感覚で、鈴木清順作品集を繰り返し鑑賞する世代が育っている」(中条省平氏「越境する映画」2005年6月1日・毎日新聞夕刊)そうだ。また貸DVD店では深作欣二が英雄であるという。またパリの大書店には日本のマンガ専門の大きなコーナーができていて他のコーナーと比較にならないほど多くの客が立ち読みしているらしい。

深作欣二が英雄で鈴木清順がバルザック全集と同じ感覚で繰り返し鑑賞されている、ということはさして面白いことでもないと私は思うから「一人の日本人として誇らしい微笑みを禁じることができない」中条氏に共感するわけにもいかない。

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2005年6月 5日 (日)

「戦争の罪を問う」(続き)

カール・ヤスパースの「戦争の罪を問う」は日本語版で出版されたことで原書とは異なる文脈で読むことも出来る本になったと思う。原題は「Schuldfrage(責罪)」。この書はヤスパースが敗戦後のドイツで一国民として、どう生きるべきなのか、あるいは生きられるのか、という問いを立て、ハイデルベルク大学で1945年から1946年の冬学期に講義した原稿を基に出版したものである。その重要な問題提起は先にあげた4点である。ここではアカショウビンが考える同書を通して喚起された異なる論点を挙げてみる。

同書は日本版として故橋本文夫氏の翻訳で1998年の8月15日に出版された。その日付を見れば、ある意図が読み取られるわけだが、それとは別に、解題を書いている福井一光氏がハイデッガーとの確執を述べている箇所は違う文脈でヤスパースとハイデッガーの思考の違いを際立たせていて興味深いのである。というのも戦前には、学問的に解き明かそうとした事態への共通の関心を確認した二人が、ナチスがドイツを席巻していくなかで次第に乖離していく経過も説明されているからだ。それは既に1980年代後半にヴィクトル・ファリアスの「ハイデガーとナチズム」(日本版199010月)やデリダ(注)、フィリップ・ラクーラバルト(注)、リオタール(注)の論考やアドルノ、レヴィナスらのハイデッガー論を読めばヨーロッパの哲学史でハイデッガー哲学が、いかに無視できないものなのかということがわかる。フランスで端を発したハイデッガー論争以来、現在も継続していると思われるハイデッガーという「謎」に対する私の興味とも関連しているので、ここに、この本を思考の材料として挙げる次第である。

(注)フィリップ・ラクーラバルトの「政治と虚構」(1988)の日本版は1992年出版、それに応じたジャンフランソワ・リオタールの「ハイデガーとユダヤ人」(1988年)の日本語版も1992年に出版されている。また「私は、亡霊と炎と灰とについてお話ししようと思う」(港道隆訳)という切り出しで1987年3月14日に行われたジャック・デリダの「ハイデッガー開かれた問いの数々」という演題の国際哲学研究院での講演は「精神について」(1990年人文書院刊)という本になっている。

ハイデッガーの方法論に対するヤスパースの考えは、解題を書いている福井一光氏によると、次のようであったと述べている。(p 213)

しかし、この一見厳密に見える方法論へのこだわりは、存在の本来の在り方である実存を解明するには、自分が一個の実存として呼びかけ訴えかける自らの実存経験を通してのみ初めて可能になると考えるヤスパースから見ると、終始解釈学的現象学という思弁的な道具立てを操作する知的方法によってしか実存を確実に理解することはできないと見做す、なお観念論的議論に止まるものであり、もしそれがハイデッガーの哲学であるのだとすれば、彼の実存を問題にする哲学は、新たな思弁哲学を招来させるものにしかならないではないかと映るのである。否、それどころか、こうした方法論に固執するハイデッガーの哲学は、かえって観念論的体系と、その知的エリート主義の中で実存的真摯さを窒息させてしまうもののようにさえ思われたのである。

そしてヤスパースはこう断言したという。

 「心の交流というこの根本的経験にもとづいて哲学を呈示するということは『作品』としての体系構成ということを意味するでしょうが、そうした体系構成は私にはおそらく無縁のものです。哲学的思索は私にとってはつねに、それが言語の公共性のなかへと入ったかぎりにおいては、たんに現実のひとつの側面を成すものであるにすぎないように思われます。・・・(中略)・・・それは、時として入りこんでくる付随的な瑣末な事柄に当てはまりますが、問題事象そのものには当てはまらないでしょう」と。

 そして福井氏は次のように述べる。

かくて事態にたいする思索と体験の仕方における決定的な相違を、これまではお互いの内面の自覚の陰に止めてきた二人は、その相違を、正に二人の人生の根幹に関わる最も微妙な責罪の問題をめぐって表面化せざるを得ないところまで至ったのである。

この経緯をアカショウビンは哲学には少なからぬ関心を持ちながら十数年前ににフランスで沸き起こったハイデッガー論争をきっかけにハイデッガーの「存在と時間」を読み直しハイデッガーのほかの書物や講義録を読んでいくうえで独仏、英米のハイデッガー論と共に実に興味深い主題と考えているので、ここにあえて一つの材料として提出する次第である。その中の一つとして、とりあえずリオタールの「ハイデガーとユダヤ人」を挙げておきたい。リオタールが日本語版の序文で日本の高山岩男、高坂正顕ら近代の超克の論客たちや竹内好も視野に治めて日本という国の戦前を論じているのが興味深い。

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2005年6月 1日 (水)

歴史的仮名遣い

桶谷秀明氏の「昭和精神史 戦後篇」を読んで先ず考えるのは、日本という国家と日本語という国語の実情が、どのような帰趨を経て現在に至っているのか、という思いである。歴史的仮名遣いで綴られる文章の張りは読む者の襟を正させる。そこには桶谷秀明という人間存在が彷彿としている感がする。そこから私は文体という意味を改めて連想する。いずれの国にも国語があり、それは歴史の中で改善、改悪という紆余曲折を経て現在あるものであり、そこで意思疎通が出来ないとするなら、その経過の屈折の仕方は不幸というしかない。

私には現在の国語の不幸は私という存在の不幸と無関係とは考えない。大和言葉の雅は、この2005年の現代日本人が日本語で会話する多くの日本人が失いかけ、一部にはもちろん、復古的な動きはあるだろうが、「国家」の遺産だろう。それはまた、人間という存在にとっての言葉・言語の持つ意味という問題と密接な関係にある。ハイデッガーなら、人間にとって言語は、その存在と存在的に、あるいは存在論的に不可分に関わってくる性質を持つ、というだろう。彼は、存在にとって言葉(言語)は家である、と指摘しているからだ。

言語が、国家に属する人々の生活にとって不可欠の「道具」として必要なものであるなら、それは出来るだけ真っ当な形で継承されていったほうが良いと私は考える。

この国の古代は言霊の咲きわう国であったはずだ。言霊と言う単語が、他の国にもあるのか私は詳らかにしないが、それは言葉、言語の持つ重要な意味を言い当てている。

同様に「文章の力」と言って良い力が確かに存在する。それは決して美文というものではない。

山本夏彦の言い方を借用すれば祖国とは国語である。「戦後民主主義の虚妄」論議も煎じ詰めれば「国語」とは何かという一つの論点を立てる事が可能だ。

当用漢字と常用漢字の区別も「国家」の統制に関わる結果でしかない。ここに首肯できない人々がいるのを「国家」(日本政府)から果たして視えているのかどうか、が、この国の将来を左右する方向の一つと私は考える。

私は、熟考すべき問題は、日本語というより、現在の「国語教育」のあり方にあると思う。そこで突飛に思われるかもしれないが、現在の大学受験科目での国語の価値を英語より重くすることを提案する。高校の正課では歴史的仮名遣いを、受験でもそれに準拠した問題を数問出す。もちろん唐詩選を楽しめるくらいの漢文の出題も同等に。なぜなら、それは現在の英語教育とも絡んでくる事だからだ。だからと言って私は英語を第一番に置くわけではない。外国語を実学として学ぶ必要を薦めているわけでもない。しかし多くの学生が大学を出ても使い物にならない現在の英語偏重の教育現場は「国語教育」を根本的に見直すことで改善の余地があると私は思う。山本夏彦の言は明察と言うしかない。

  「国語」を深く考えるということは、別の論点になるが憲法改正論議とも無関係ではありえない。私は中学、高校での国語教育の重視こそが根本的に現在の我が国の迷走と混乱を解決する一つの糸口になると考える者である。しかし、そういう論議や思考がサヨクからウヨク的言辞と解されるような早とちりは勘弁願いたい。

国語は、現在に生きる私たちが話す日本語と密接に関連して、国の文化と切っても切れない関係を持つ。改めて言うまでもなく、歴史的な経過を経て現在がある。その現在に生きる私たちがより良く国語で現在の生活を楽しむためには、我々の国語の特質を教師が明確に教えなければならない。そこがあくまで理解されなければ、すべて国語は不幸でしかない。

最新の「小林秀雄全集」は歴史的仮名遣いと新字体の2種類出ている。著者の書いた文章は歴史的仮名遣いであり、普及版は新仮名遣いに修整されている。しかし當用、常用漢字の制約から自由に、著者が使用している漢字の使い方にも込められる思考の動きが、より正確に辿れるのは前者の方であろう。新潮社の全集は前者が1巻8千円とベラボウに高い。これでは中学生、高校生には手が届かない、私にも届かない(笑)。私は図書館で借りて読む。もっとも、どの中学・高校・大学、公立の各図書館にもおいてあるかどうか知ないが。

とはいえ私を含めて、若い人たちが歴史的仮名遣いや、小林氏の使う漢語に無知であれば、せっかくの貴重な文献を自らのものとして読み取ることはできないのだ。祖国とは国語である、という先の山本夏彦の言に倣えば、文化とは生きている国民の言葉であり生活であり、ひいては国語である、という視点は重要であろう。読書とは、著者の呼吸と思考の動きを文章から読み取ることではないのか。単なる知識の集積ではなく、「心読」(この言葉は今や死語だろうが)の必要を私は訴えたい。国の乱れは国語の乱れ、とすれば、喫緊なのは正に国語を学ぶ時間の不足を妥当なものに戻すことではないのか。行政は、その怠慢を心底反省し改善に努めるべきだ。それは怠慢を通り越して後の人々に対して罪悪ではないか、とさえ私は危惧する者である。 

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