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2005年5月29日 (日)

ヨーゼフ・シゲティ

ミルシテインやクレーメル、シェリングの、バッハの無伴奏を聴いた後にシゲティを取り出し久しぶりに聴いた。それはあたかも木彫りのバッハだ。ミルシテインや他の名手達に比べると、老齢のシゲティの演奏技術は壮年の頃からすればあまりにも衰えている筈だ。録音技術の違いもあるだろう。しかし荒削りとしか言いようがない、その演奏には魂があると私には思える。誰にでもそれはあるだろう、と言う類のものではない何かがそこにはある、と思うのだ。喩えて言うと、樫の大木やガジュマルの枝ぶりから感受できるような如き命が通っているように私は聴き取る。そこには、シゲティという老演奏家の人生が込められている、と私には感得されるのだ。20歳前後の私は、その音楽に救われ、励まされた。私にも音楽家の荒ぶる魂の鼓動は伝わったと思っている。

その頃、大学に入った前後の時期に、それを聴いた私は、この世も、もう少し生きてみる価値はあるか、と生意気にも考えたのだ。生きることに、私なりの意味を見出した、といっても誇張ではない。生きる、ということは10代でも、あえて言えば10代以前の子供たちにとっても、おそらく本質と思われる場では関係なく、同じに困難なものだ、と私は昨今の子供達の陰惨な事件をテレビや新聞、雑誌で見聞きしながら思うのだ。

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コメント

私は、筆者のように音楽を精神の深みで受け止めたことはないのかもしれない。自分にとって音楽は、刺激であり癒しであり、音楽的好奇心の対象である。何よりも日常の中の楽しみだった。
音楽に魅せられるのは、自分の感性をよりイマジネイティブなものへと飛翔させる響きであり、音色であり、リズムであり、音の強弱であり、緩急の速度であり、様々なメロディだった。自分で演奏するとき、それは歓び以外の何ものでもなかった。ゆえに私にとって音楽は特別なものという意識はなく、様々な演奏を聴いて打たれることはあっても、音がやむともう響かないのである。無になる。言葉以前の感性で言葉以上の感覚が展かれたとき、それは全身全霊を聴覚と化して、その音楽に浸る他はないのである。

投稿: スタボロ | 2005年5月31日 (火) 午前 02時34分

 スタボロさん、コメントありがとうございます。私にとって、ある種の音楽は信仰の対象のようなもの、あくまで「ようなもの」ですが(笑)、というか、私という存在の物語に根幹的な刺激を食らわす効果をもつ何物かです。
 「音がやむともう響かないのである。無になる」ことは私の大概の音楽経験もおっしゃる通りです。しかしバッハやベートーヴェンの幾つかの作品、あるいはシゲテイ、フルトヴェングラー、クナッパーツブッシュの演奏する音楽に震撼した後に、それは「「無になる」と言い切れるのでしょうか。「なる」と私の意識の片隅からそのような声も聞こえますが(笑)私の別の意識がそれに抵抗するのも確かなのです。あぁ私は分裂症なのでしょうか!(笑)l
 人間存在というものは実に奇妙なものだと思うのですが、音という形式で私の意識に届いた何者かは意識を統べる精神のありかたを変えてしまうように思われます。
 このブログは、とりあえず「存在をめぐる思考」と大風呂敷(笑)を広げてありますので、まだるっこしい表現になりますがご了承ください。

投稿: アカショウビン | 2005年5月31日 (火) 午前 05時40分

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