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2005年5月30日 (月)

田中一村について

 横山大観に「隠棲」という作品がある。明治35年(1902年)、大観34歳の時の作だ。縦長の画面の下には、白いゆったりとして温かそうな中国風の衣装に身を包み顎鬚をたくわえた人物が画面左方を向いている。画面の右側には縦長の画幅の5分の1位を領して断崖の岩が切り立っている。下方の中央から、やや右よりに人物が左側を向いて悠然と腰掛けている。しかし、その人物の存在は画面全体の1割か2割しか占めていない。ところが8割とも9割とも見られる何も描かれていない空間と人物は均衡を保っているではないか。何故だろう。画面の殆どは乳白色の何も事物は描かれていない空間だ。しかし、その空間は人物の存在によって何事かの意味を持っているかのように見えるのだが。それはいったいどういう意味なのかわからない。というより、それは果たして意味というようなものなのだろうか。

 私は、その作品を画集で眺めるだけで、茨城の美術館に所蔵されていると記されている実物を見たことはない。しかし強くそう思うのは、田中一村の一連の作品を見ていて一村が尊敬していた大観の作品に込められていると私が感得した考えと、一村の作品群には共通する何物かがあると思うからだ。

 表題の「隠棲」という言葉から大観が作品に込めたと思う内容を言葉にしてみるとこうなる。隠棲とは、私達が生きている空間に十分なゆとりをもって生活し、沈思し、黙考し、その空間で何物かと対峙し、何事かの意味を見出すことだ、と。

 もちろん、隠棲は隠遁とは違うだろう。この作品に世の中から遁れる、あるいは逃げて生きているという風情はない。実に悠々と視線の先の空間と交感しているようだ。大観の技量はこの頃どれくらいだったか、あるいはこの後も進んだのか私は専門家でないから知らない。しかし、この作品からは殆ど作者の「思想」としか思えない境地が私には感じられる。

 私の中には未だに、青春期に大観の作品から受けた衝撃が残っているようなのだ。一村が尊敬していたという大観の画集を引っ張り出し、その巻頭に出ていた「隠棲」を見て、それを忽然、実感したのだった。

 一村の初期から中期の水墨画や屏風絵を観ていると、大観達の日本画に集約される画家達が目指した理想に至る階梯が望見できる気がする。一村と大観を比べて私のような絵好きの素人でも、その程度の感慨はもてる。一村の才覚が玄人から、どの程度の評価を得ているのか私は知らないが、その天から授かったものとしか思えない力量は直覚できる。

 人生の半ば以降に移り住んだ奄美での作品は、画風が変わり新しい境地へ分け入っているのがわかる。私は、その作品に描かれている奄美で育ったから、一村が描いた蝶や植物群、アカショウビンの鳥などを介して描かれる自然と作品の構図には感覚的に共感するところがあるのだ。

 一村は奄美に隠棲することで、自然と対峙しながら沈思し、黙考し絵筆を取り続けた。そこで彼が格闘していたのは何だろう。東京のライバル達か。尊敬する大観か。しかし私にはそれは天が彼に与えた才能であるように思われる。貧乏暮らしではあったが、彼の思想信条は、画家は売り絵を描いてはならぬ、というもので、その潔癖性は世間の常識の埒外にあるものだ。それは、この道しか吾を生かす道なし、と思いつめた、優れた芸術家に共通するものと私は思う。

 しかし彼は何故、奄美を選んだのか?

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2005年5月29日 (日)

ヨーゼフ・シゲティ

ミルシテインやクレーメル、シェリングの、バッハの無伴奏を聴いた後にシゲティを取り出し久しぶりに聴いた。それはあたかも木彫りのバッハだ。ミルシテインや他の名手達に比べると、老齢のシゲティの演奏技術は壮年の頃からすればあまりにも衰えている筈だ。録音技術の違いもあるだろう。しかし荒削りとしか言いようがない、その演奏には魂があると私には思える。誰にでもそれはあるだろう、と言う類のものではない何かがそこにはある、と思うのだ。喩えて言うと、樫の大木やガジュマルの枝ぶりから感受できるような如き命が通っているように私は聴き取る。そこには、シゲティという老演奏家の人生が込められている、と私には感得されるのだ。20歳前後の私は、その音楽に救われ、励まされた。私にも音楽家の荒ぶる魂の鼓動は伝わったと思っている。

その頃、大学に入った前後の時期に、それを聴いた私は、この世も、もう少し生きてみる価値はあるか、と生意気にも考えたのだ。生きることに、私なりの意味を見出した、といっても誇張ではない。生きる、ということは10代でも、あえて言えば10代以前の子供たちにとっても、おそらく本質と思われる場では関係なく、同じに困難なものだ、と私は昨今の子供達の陰惨な事件をテレビや新聞、雑誌で見聞きしながら思うのだ。

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小津安二郎

小津作品の面白さとは何かと考えてみる。それは、とりあえず「虚無感」とでもいえば、蓮實重彦氏や欧米の小津への関心の中核に潜むものが言い当てられるような気がする。

「国際シンポジウム 小津安二郎」(朝日新聞社 蓮實重彦・山根貞男・吉田喜重 編著 2004年六月二十五日)は御手軽な本だが編者達やパネラー諸氏のナマの声が読めて小津映画を若い頃から見続け小津「作品」について思い巡らし続けてきた者にとっては馬鹿馬鹿しくも面白い本である。

あくまでもナマの声が「読める」と書いておくわけだが、蓮實氏の口吻の興奮さには氏の著書に少しは目を通した者にとっては多くの聴衆を相手に喋るという行為とイベントの企画者が参加者に「スピーチする」行為の滑稽さと嘘臭さとそれを読む者の馬鹿馬鹿しさと気恥ずかしさを経験させてもらった事に怒りと感謝は呈さねばならないと断っておくべきだろう。

それでも、蓮實重彦氏の次の指摘はなるほど、と思わせられる。「映画とは、一人の映画作家の審美感や個人的な趣味の範囲にとどまるものではなく、映画自身の限界によってあらゆる監督をも拘束する制度的な体系だからである」。「監督 小津安二郎」 (1988年版129頁))で氏はこのように書いている。

ここで言う「映画自身の限界」とは何だろうか。

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保田與重郎

 保田與重郎は忘れられた「文人」だろうが、あえて今読む面白さがあると思う。私は時勢に便乗しているわけでなく、日本という国の文学史を考えるうえで保田與重郎は重要と考えるからだ。戦前から戦中、戦後の歴史過程で、この「文人」の作品は右翼的言辞として左翼から徹底的に論難された。同様に同じ扱いを受けた小林秀雄の戦後の評価を見れば実に不遇な評価しかされていないのが保田與重郎という「文人」なのである。しかし戦後の日本の進んだ方向への違和感を根本のところで明確に主張しているスタンスは小林秀雄より刺激的だというのが私の印象なのである。私には思想的な保田與重郎より文人としての日本文学史への造詣が面白く、そこから読み直さなければ保田與重郎の思想は十分に把握できないと考える。小林秀雄の最後の作品となった「本居宣長」の裏にある日本思想の根幹は保田與重郎に光をあてなければ総体的に捉えることは出来ないと私には思われる。

 現在、憲法論議が盛んになっているが、新憲法が制定された時期に保田がさっそく新憲法への疑義を呈して「新憲法の趣旨は、歴史的にいうならば、近代史の進行過程に於いて、その現実性をもたない抽象的観念論の産物というべきであった」。(「述史新論」新学社)と主張している理由は再考すべきだろう。

 その根拠ともいうべき彼の考えの基本は「近代」という概念を全否定するところにある。その態度を闡明して西洋と対立する東洋(アジア)を主張するところは通常の右翼的思考とはいささか異なるところが私には興味深いのである。

 我が国の政治的、思想的現在を考えるうえで世界史的視野で思考しなければならないとすれば、閉鎖的な島国思考では道を誤るわけで「近代」を主導してきた西洋がどのような歴史過程を経てきたかを明確にしておくことは重要だ。とりあえず現在突出しているイスラーム世界はさておく。アフリカ他西洋以外も。西洋と米国、この二地域の歴史と未来を展望することが、我が国の将来を考えるうえで、将来の世界史を展望するためには有効と考えるのだ。戦後ドイツの運命を根底的に思考した例としてヤスパースの姿勢は参考になる。「戦争の罪を問う」(平凡社ライブラリー)は盟友ともいえるハイデッガーとの戦前、戦中、戦後の確執を考慮すると興味深い著書といえる。哲学的思考ではハイデッガーのほうに魅力を感じるけれどもヤスパースの誠実さは、それはそれで好ましいものであり、この二人の哲学者の思考は私にとって実に刺激的であることも付記しておこう。

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