2019年5月23日 (木)

労働の日々

 先週に続き、二度目の夜勤アルバイトである。町田から大井町まで。都会の夜は地方と違う。サラリーマン時代に信州の夜汽車で移動したことを想い出す。「姥捨」という駅にも止まった。木下や今村が映画の舞台とした土地だ。一度くらいは降りて、土地の風情を呼吸するのだった。あの時の侘しさは都会の電車にはない。信州の夜も都会とは違う。山間の暗闇は土地に棲んでみなければわからない。電車は乗り換え駅に着いた。さぁ、日銭を稼がなければならぬ。

 ところが、電車が止まった。蒲田の前で。やっと動き出したが間に合うかどうか。向こうの座席ではアベックの若い男が正体なく女により掛かり眠り呆けている。女は携帯電話を操作するのに夢中だ。これは日本の現在を見事に象徴している。しかし、電車は目的地に何とかたどり着いた。マイクロバスはゆるゆると物流センターに向かう。電車の遅れで食事も取れない。駅近くのたこ焼き屋でたこ焼き六個を買い車中で食う。何とも忙しない夜だ。

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2019年5月22日 (水)

追悼

 加藤典洋氏の訃報を今朝の東京新聞〝筆洗〟で知った。71歳とは平均寿命からすれば早すぎる死だ。しかし人の寿命はそれぞれ。アカショウビンは氏の論考をたまに読むていどの読者だが、それは戦後の此の国の現状に対し実に刺激的な批評家だった。それは加藤周一や吉本隆明に続く思想家と思う。

 筆洗では氏のゴジラ論を紹介している。曰く、ゴジラとは第二次世界大戦の死者たちの体現物である(『さようならゴジラたち』)。氏は『戦後後論』で、日本がアジアでの戦争加害と向き合うためには、まず日本の戦没者を弔うべきだ、と論じた。その視座に同意する。「戦争の先兵にして犠牲者。日本の戦争の死者の両義性を理解せずしてアジアの戦争犠牲者への真の謝罪はできない」という筆洗筆者の一文にも。それはまた『散るぞ悲しき』で硫黄島で散った栗林忠道の一生を辿った梯久美子さんの著書とも呼応する。また氏も読んだであろう、ハンナ・アーレントの政治思想とも。

 今朝は故人を弔いバッハの『マタイ受難曲』をクレンペラー盤で聴く。晩年の巨匠の遅いテンポの演奏はバッハのスコアの行間を読みこむ気配が感じ取られる。加藤氏はこれを聴いただろうか。それは正にイエスの死を受容する過程を辿る気迫である。改めて氏の著作を辿り戦後日本の経緯と現在に思考を巡らせたい。

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2019年5月21日 (火)

大人になれない政治家

 意気がった党名の所属議員が醸した本音が新聞紙上で丁々発止される。事の顛末を紙面で辿れば、頭の悪いおぼっちゃまくんが、アルコールの勢いで、大ボラふいたような話だ。大人になれない、「恐るべき子供たち」の現代日本版というところだろう。議員の支持者の責任は、党派を超えて政権の横暴と通じている。ハンナ・アーレントの全体主義分析の論説を辿ると、西洋近代が世界に生じさせたハンナの説く「超意味」という概念の到達するナチズムに席巻されたドイツ国家の歴史を考察する意志を励起させられる。それはまた同時代にナチズム国家と呼応した日本帝国主義国家の歴史を辿るということでもある。一人の軍人に光をあて、戦争という愚行を分析する梯久美子さんの著書に集中することでもある。その成果はこれからの楽しみの一つである。アカショウビンは、それがハンナの到達した境域に達することを期待する。それにはハンナが生きた欧米とは異なる東洋的知性も駆使しなければならないだろう。アカショウビンには残り少ない時間を梯さんはたっぷり持っておられる。心からご精進を期待する。アカショウビンも残された持ち時間を無駄にせず余命を全うしたい。

 大人になりきれない若い議員の責任は支持者の責任であり、法を踏みにじり歴史の愚行を確信犯の如く辿る現政権の暴虐は国民の責任と無責任である。その情況のなかで、ハンナの論説を熟読しアカショウビンは告発、暴露、思索していく。

 若い議員の知性と行為も現在の日本国民の平均レベルである。それは敗戦の時に敵国の将軍から子供のように幼稚だと皮肉られた事を想い起こさせる。

 「超意味」をハンナは次のように説明している。

 最も不条理なものまで含めてすべての行為、すべての制度が、この超意味によって、われわれには思いもよらなかったほどすっきりした形でその<意味>を与えられる。全体主義社会の無意味性の上に君臨するのは、歴史の鍵を握りあらゆる謎の解決を見つけたと称するイデオロギーの持つ、<超意味>なのだ。それと同時に、十九世紀のさまざまなイデオロギーや、科学的迷信とか半可通の教養とかがひけらかす奇妙な<世界観>が無害であるのは、それを本気で信ずる人間がひとりもいない間だけだということもあらためて明らかになる。―『全体主義の起源』 p279~280 (みすず書房 2017年8月10日 大久保和郎・大島かおり訳)。

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2019年5月19日 (日)

ラルゴ エ メスト

 速度指定で「幅広く ゆったりと そして 悲しく 憂鬱に」という。ベートーヴェンのピアノ・ソナタ作品10の三つのソナタのうち三番目の三楽章の速度指定である。ケンプの1965年の録音で聴き直した。若きベートーヴェンの息吹と嘆息が聴き取れる思いがする。続く四楽章、メヌエット アレグロへの移行も静謐ですばらしい。この録音を聴くきっかけになったのはグリューミオ・トリオが1967年に録音したベートーヴェンの弦楽三重奏曲の第二番ト長調の第一楽章アダージョをたまたま聴いて息をのむ弦の妙音に挑発されたからだ。若きベートーヴェンの作品を優れた演奏家が演奏すれば現世の妙音と言ってもよい調べが奇跡のように奏でられる。それに驚愕し刺激され、改めて若きベートーヴェンの作品に集中しようという気力を得た。弦楽トリオ、ピアノ・ソナタを経てベートーヴェンは作品15で最初のピアノ協奏曲を世に問う。それも幾つかの録音で聴いてみよう。

  そのような衝動に駆られたのも先に読んだ河島みどりさんのリヒテルの本、そして古本で購入した武満 徹の対談集を読んで刺激されたからだ。武満が1975年10月30日に出した『ひとつの音に世界を聴く』(晶文社)の中に吉田秀和との対談がある。それが実に面白い。1974年1月、『ユリイカ』に載ったものだ。タイトルが「ベートーヴェンそして現在」。興味ある方には是非読んで頂きたい。それは行間に若い武満や吉田の当時の時代情況への思いも読み取れるからだ。

 それはまた我々が生きる現実と現在、政治情況、文化情況とも呼応する。アカショウビンは一年近くテレビを観ないが、東京新聞でそれらは記事で読んで過不足ない。関心のある話題には更に突っ込んだ記者や論説委員の記事で読める。その幾つかはブログで感想を述べる。今朝の朝刊の27面〝本音のコラム〟は前川喜平氏が「高等教育無償化が変だ」という見出しだ。同紙のコラムは先日、奄美大島の見出しで同氏が初めて訪れたというアカショウビンの故郷の現実も興味深く読んだ。何と奄美にミサイル基地が設置中という。我が故郷も現在の政権の無法と横暴にに翻弄されている。

 コラムの下には先日、俳優・佐藤浩市のインタビューが思わぬ騒動になっていることを伝えている。彼のコメントに右派・保守派、ヘイト・スピーカーらが過剰反応したらしい。現在の政治・文化情況を反映すると思われる現象だ。改元やオリンピックに向けて能天気な空気のなかで時に突発的な状況が生じる。その一端を現わす遣り取りだろう。そのような空間・時間の中にアカショウビンも市民、国民も生きている。それは未だ幸いなほうだ。世界の各地では砲声が止まない。アカショウビンもベートーヴェンの作品に集中できる。それは現世の安穏ともいえる。それが否定される時が来る。将棋の故・米長邦雄の名言がある。タイトルは取ったときに笑っておけ、いずれ泣く時が来る。それは新名人の豊島名人も肝に銘じているだろう。将棋や囲碁の世界は盤上の勝負がすべてである。泣くも笑うも。しかし私達が生きる政治情況は将来の市民、国民に跳ね返る死活に関わる。そこに能天気ではいられない。

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