2019年7月21日 (日)

キネマ旬報創刊100年

 東京新聞の朝刊は15面で半面をその記事で埋めている。アカショウビンの若い頃も評判の作品の批評は同誌で読んだ。もっとも近刊はほとんど読むことはないが。しかし気になった記事は若い頃から保存し残っている。映画を観る切っ掛けは、最近は友人から頂く招待券などで劇場に通う程度で殆どはレンタルショップで間に合わせている。その感想は時々書いている。最近では、久しぶりにゴダールの「パッション」を観て新たな刺激を受けた。この1982年に公開された作品は観ている筈だが殆ど新たに観るように新鮮で挑発された。ゴダールの新作は公開されたようだが未見。既に80歳を越えている筈だが雑誌でのインタビューを読むと意気軒昂。大したものと感嘆し観るのが楽しみだ。それにしても、このフランス映画の巨匠の作品は断続的に観て刺激を受け続けている。

 朝刊の外国作品・監督別入選回数でゴダールは12位。トップはクリント・イーストウッドである。それに異論はない。しかし、日本作品・監督別入選回数に小津安二郎が入ってないのは意外である。アカショウビンにはトップにもってきてもおかしくない監督である。先日から晩年の「秋刀魚の味」、「秋日和」を観てますますその感を深くする。戦前から映画を取り続けた監督が晩年のカラー作品で達した境地は日本人なら誰しも共有できるというのもアカショウビンだけの主観ともいえないと思うがどうだろう。作品には小津のユーモア、諧謔、隠蔽、趣味、すべてが込められていると言ってもよい。俳優たちも小津の演出に応えて過不足ない。それが小津作品を観る楽しみなのだ。それは恐らく洋の東西を問わないのだろう。小津の発見はむしろフランスやドイツ、イランなどの外国で継続されている。その映像を繰り返し観ると新たな発見がある。それが名作の持つ豊饒さと言ってよい。「秋日和」は昭和35年の作品である。様々な家族間の交流でひと組の男女が結婚に至る経緯を描いて飽きさせない。原 節子、三宅邦子、沢村貞子、司 葉子、岡田茉莉子、らの女優陣に対し男優は佐分利 信、中村伸郎、北 竜二、笠 智衆、佐田啓二。これらの俳優達が織り成す物語と小津の演出が冴える。日本映画の傑作の一つと確信する。もっともアカショウビンが務めた会社の新入社員で大学の頃に映画クラブだったという社員に小津は観ているかと訊ねたら知らないと聞いたのには驚いたが。現在でもそんなものかも知れない。しかし傑作、秀作はいつの時代にもある。それが変化しても、文学でいえば古典の価値は失われないようなものだろう、と思いたい。それは音楽でも絵画、美術でも同じだろう。傑作の前に立てば人は襟を正す。優れた作品というのはそういう対応を迫る。

 それはともかく、同誌の百年には映画ファン達の様々な思いがあろう。アカショウビンも内外の傑作を観るのが日々の活力を得ることである。

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2019年7月16日 (火)

下層労働の実態

 本日の東京新聞夕刊は<労働者のための政治を>の主見出しで、<「偽装請負」の末 使い捨てられ>、<直接雇用求め 会社を提訴>の副見出しで、カーペットや内装材の総合メーカー「東リ」の仕事切りに対し裁判で神戸地裁で闘っている五人のレポート記事だ。アカショウビンの下層労働に照らして他人事ではない内容である。詳細は省く。「東リ」工場での請負の形での就労は製造業への労働者派遣が禁じられていた1999年頃に始まっていた、と記者は書いている。法改正により現在は派遣が可能だが、三年ごとに労働者を換えねばならず熟練工を使い続けられないデメリットが企業側にある。仲間で労働組合を作った人たちは労働者派遣法にある「みなし制度」を使い直接雇用を求め東リに団交を申し入れたが東リは拒否。別の会社からの労働者調達に切り替えようとした。ところが組合員16人のうち雇用を約束した11人を派遣会社に雇い五人を不採用にした。組合崩しである。五十代での職探しは厳しい。アカショウビンも10年前に体験した。裁判には費用がかかる。兵法でいえば兵糧攻めである。原告弁護団の弁護士は「これが救済されないなら、せっかく法改正したみなし制度が生かされないことになる」と主張している。「〇八年に派遣切りが多発し、選挙で雇用の安定は重要な争点だったのに、今はどうか」とも。

 アカショウビンが働く警備会社は作業リーダーを隊長と呼ぶ。これが様々だ。きょうの隊長は軍隊の悪軍曹のようなものだ。初年兵を人間扱いしない。暴力こそ振るわないが言動は紙一重だ。それには当然抗議した。向こうは鼻白んでいたが。雨のなかアカショウビンはヘルメットと合羽姿で水道工事現場の交通誘導である。とはいっても人通りの少ない高級住宅街である。殆ど立ちつくしたまに通る歩行者や自転車に声をかけるだけだ。それを果たして仕事というのか。むしろ下層労働というべきだろう。労働に上中下があるのは経験的事実だ。その欺瞞が、非正規と正規雇用の平等という建前の裏の本音は差別の実態なのだ。労働契約申し込み「みなし制度」の施行は2015年。その後、適用例はないという。それが現実の法の施行の実態なのだ。アカショウビンの労働の実態もそのような法制度の現実の渦中にあるということだ。

 

 

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カモカのおっちゃん

 田辺聖子さんが亡くなられて突然「カモカのおっちゃん」が読みたくなり中古本で探したが見つからず書店に問い合わせるも在庫なし。しかたなく図書館で訊ねると全集があるという。しかし他の図書館から取り寄せるというのでお願いした。「カモカのおっちゃん」は全集第九巻にある。2005年2月10日刊行である。二段組みでなく文字が大きく読みやすい。読みだしたら面白くてたまらない。さすが日本文学、海外文学に通暁している文才に驚く。それが大阪弁の可笑しさで見事な読み物になっている。全集では持ち歩くことかなわぬ。文庫は文春文庫なのだが手に入らぬけれども新たに増刷されているのかもしれない。

 全集では「カモカのおっちゃん」のあとに「芋たこ長電話」が続く。これまた面白い。昭和54年9月6日から昭和55年8月14日号までの連載である。『死亡記事』ではジーン・セバーグの睡眠薬自殺の訃報に感想が述べられている。そうか、彼女が亡くなったのはその頃なのか。評判の女優だったけれどもアカショウビンの女優烈伝では下位である。『悲しみよこんにちは』、『勝手にしやがれ』のジーンが田辺さんには強い印象を与えたようだ。アカショウビンは殆ど記憶がない。改めてレンタルショップで探し観直してみよう。

 それはともかく、映画と音楽、読書はアカショウビンの日常に不可欠。先日は、小津の『秋刀魚の味』、ゴダールの『パッション』、黒木和雄の『浪人街』をレンタルDVDで借りて久しぶりに観た。きのうは、張 芸謀(チャン・イーモウ)の『上海ルージュ』も借りてきた。その感想も書いていこう。

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2019年7月13日 (土)

訃報が知らせる事

 先日亡くなった高校の同級生の訃報に続き、アカショウビンが長く勤めた会社の業界で付き合いのあった方の訃報が、これまた長い付き合いの、業界の先輩から届いた。少し予想はしていたが、それが明らかになれば、遅い知らせとしてアカショウビンには、その人の風貌と彼との会話の一端が回帰する。人との出会いと付き合いというのは新たに現在の日常と現実のなかに突然その人の回想とも回帰ともなって訪れる。それは不可思議な人間の在り方ともいえる。

 思い出とは何か?回想、回帰とは何か?愚想はされるが、それは何か人間存在の不可思議とも思える瞬間から暫しの時を思索へと促す。熱中症で急死した高校の同級生とはそれほど親しかったわけではない。何度か飲み会で久しぶりに出会ったくらいだ。しかし、その時の彼の印象や語りは写真や記憶のなかで甦る。

 業界での付き合いが長かったKさんとは昨年も会ったばかり。先日お会いしたくて携帯電話に電話したらつかわれてないというアナウンス。共通の先輩に連絡したら奥様の話が聞けて亡くなったことを知ったということだった。しかも三月に。遅れた訃報はアカショウビンも同級生の死の知らせで後悔したことがある。何と三年前に亡くなっていたことを奥さんから聞いて愕然となった。

 人の死とは何か?それはまた新たな愚考を促す。本日は同級生の追悼会に行く。会場は最後に会った店。何人かの同級生たちと写真を見ながら語りあうことになるだろう。それから既にも五年が過ぎている。しかし同級生達の感想はそれぞれだろう。アカショウビンも高校以来の自らの感想を含めて語り合いたい。

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